(93点)ルソーの「人間不平等起源論」を情熱的に感想・評価・レビュー。不平等が人類にもたらしたもの

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), MembersOnly(会員限定), Philosophy(哲学), Radio(ラジオ), Rousseau(ルソー)

どうもこんにちは、SenKuSya代表のKotaです。

皆さんジャン=ジャック・ルソーはご存しですか。
高校の現代社会の教科書の中で、確か「社会契約論」を書いた人物として出てきたような記憶があります。

今回僕が紹介する本は、このルソーが書いた「人間不平等起源論」という哲学書です。
非常に興味をそそられるタイトルですね。
僕は哲学書が好きなので、結構な数の本を読んでいるのですが、内容が濃すぎてブログで書くのが難しいんですね。
だけど、僕は哲学書が好きだし、面白いだけではなく、実生活にかなり役に立つと思っています。
なので、ここは哲学オタクとして、哲学の良さをもっとたくさんの人に広められるよう、少しずつ書いていきたいと思います。
それでは、早速この本について、僕の考えを交えながら紹介していきたいと思います。


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「人間不平等起源論」とは

人間はどのようにして自由と平等を失ったのか?
わたしたちは、フランス革命を導いたルソーの代表作である本書と『社会契約論』に繰り返し立ち戻ることで、国民がほんとうの意味で自由で平等であるとはどういうことなのか、どうすれば国民が真の主権を維持できるのかを、自分の問題として問い直すことができるはずである。
格差社会に生きる現代人に贈るルソーの代表作。



まず、最初に述べておきたいのが、この本で展開される「不平等」というのは、身体的な不平等ではなく、社会的な不平等です。
社会的な不平等というのは、簡単に言うと、富や権力といったものですね。

この本でまずルソーは、人間は自然が作った平等と、人間自身が作り出した不平等があるといいます。
平等な部分は、身体的な部分ですね。
不平等な部分は、社会的な部分です。
そして、当時のフランスの政治に対し、皮肉を込めながら批判し、それと同時に自分の理想とする国や政治体制を述べます。

その後に、じゃあこの不平等な世の中というのは、一体どこから始まったのか、それを考えてみようではないかという形で、ルソーの思考実験が展開されます。


原初の人間とは

まず人間は、自然状態では平等だったはずだと言っています。
原初の人間は群れを作らず、個人が自由に生活していて、縄張りなどもあるはずがなく、争いも殆どなかった。
完全な平等な世界だったはずだと。

この部分は実際の人類の歴史と比べて合っているかは無視して、完全にルソーの中の仮定として話しています。

そうしていく中で、人間の数が増えていくと、今までのような狩りや、そのへんに成っている果実などからの食物だけでは足りなくなる。
そうすると、神様に教えてもらったか何かで、農業という自分の手で育てるすべを身につける。

この本でも書いてますが、農業を営むということは、今までの生活より格段にレベルアップした作業なんですね。
なぜなら、野生人には、収穫を待つという概念がないからです。

野生人には、今この瞬間しか見えていません。
過去のことなど忘れ去り、未来など到底見えるはずがないし、想像の試みすらしないだろうと。

そんな中で、未来の収穫に向けて、現在の時間を投資するなんてことは、神様から啓示をもらわない限り、できるはずもないと。


ルソーはこの原初状態の人間を次のように言っています。

結論をだそう。
森の中を彷徨する野生人はとくに智恵を働かせることもなく、言葉を話さず、家をもたず、たがいに闘うこともなく、他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと望むこともない。
おそらく同胞の誰一人として見分けることもできない。
こうした野生人は情念の虜となることもほとんどなく、自分だけで満ち足りており、こうした状態にふさわしい感情と知識しかもっていない。
ほんとうに必要とするものだけを欲求し、見るに値すると考えるものしか見ない。
知能が発達しなかったのと同じように、虚栄心も発達しなかった。
偶然にも何か発見することがあったとしても、自分の子供たちすら見分けることのできない野生人には、それを他人に伝達することなど、思いもよらないことだった。技術が発明されたとしても、発明した人が死ぬとそれは失われた。
教育というものも進歩というものもなく、世代から世代へと空しく繰り返されるだけだった。
それぞれの世代は前の世代が始めたところからやり直すのであり、無数の世紀の後にも、原初の粗野な状態のままにとどまっていた。
種はすでに老いていたが、人間はいつまでも子供のままだった。


農業がもたらしたこと

この農業が発明された段階で、人類の不平等は始まったとルソーは言っています。

農業というのは、自分が育てたものを、しかるべきタイミングで自分が回収する為に、「この土地はおれのものだ」と宣言する必要があります。

そうすると、今までにはなかった財産という概念が芽生えます。
原初の状態の人類ならば、財産という概念はなく、たとえ獲物を取られたとしても、次の獲物を探しに行くだけです。

しかし、農業というものは、一定時間土地を自分のものとして維持しなければならないわけです。
そして、この私有財産という概念が、人間の不平等の起源になります。
また、今までは自由に生きていた人類が、農作業という鎖に結ばれてしまう一面もあります。


財産が存在するのであれば、持つ者と持たざる者、またそれの大小など、様々な比較要素が生まれます。
こういったように人々の中に差が生まれてしまったことは、人類にとって不幸なことだったとルソーは言っています。

わたしが尋ねたいのは、文明の生活と自然の生活のうちで、そこで生きる者にとって耐えがたいと感じられる生活はどちらだろうかということなのだ。
わたしたちの周りを見渡してみよう。
生活の苦しさを嘆く人ばかりではないだろうか。
自分の一存で決めることができるのであれば、みずから命を断とうとする人も少なくないのである。
しかも神の神聖な法と人間の法を組み合わせても、この[自殺という]不始末を防ぐことはできないのだ。
自由に生きている野生人が、自分の生活に不満を抱き、命を断とうと考えたことがあったかどうか、尋ねてみたいところである。もう少し謙虚になって、文明の生活と自然の生活のどちらが真の意味で〈惨め〉であるのか、判断してほしい。


この後は、社会が形成され、国家が生まれ、法が生まれ、権力が生まれ、更に不平等というものは加速していきます。

まあしかし、ここでは、最初の目的であった不平等の発生ってのが分かったので、本書の説明はこれぐらいにしておきますが、もっと詳しく内容が知りたい方は、是非とも本を買って読んでみて下さい。


ルソーの言いたいこと

それでは、ここからは僕の意見を述べていきたいと思います。

まず、ルソーが言いたかったことについて。

この本は、全体として何かこう未来に向かって動いていくような、パワーに溢れさせるような書物ではありません。
それよりも、今の人間の状態はここが悪くなったと、批判しているような文章がほとんどです。

ルソーのこの書物での内容をまとめると、自然に帰って暮らしたほうが、人間として幸福な生活を送れる、と言うものです。

しかし、現代の人間の暮らしや社会を、野生の時の様なものに出来るかと言われれば、限りなく不可能に近いです。

じゃあ、現代で人間が社会的な不平等をなくして、生きられるようにするためには、国や政治体制がどうあるべきかというのは、その次の書物である「社会契約論」に記載されているようです(まだ読んだことありません)。


そして、僕はこのルソーの「人間は原初の状態が良かったんだ」という意見についてどう思うかと言えば、完全に反対です。

たとえ、原始人のような状態が人間にとって最高で、当時のフランスの状況は、権力を持つ者と、持たない者とで、圧倒的なまでの生活の違いが合ったとしても、僕は人間は進化するべきだと思っています。

また、ここで取り上げている社会的な不平等なんてものは、時代とともにどんどん小さくなっていくでしょう。

幸い、日本で暮らしていると、社会的な不平等なんてものは殆ど実感できず、頑張らなければそれ相応の暮らしになるが、頑張ればどこまででも突き進んでいけると思っています。

僕は日本とオーストラリアでしか暮らしたことがないので、他の国の現場がどうなっているのか、もしかしたら、生まれた家庭の位によって、将来が決定されるような人たちが多くいる国だってあるかもしれません。

しかし、ネットの力で、世界中どこの情報でも手に入れられるし、ITの今後の活躍で、面倒なことは全てロボットに任せて、人類が働くということすらなくなるかもしれません。

働かなくても生きていけるようになった時、お金の価値観というものは物凄く変わってくると思います。

もし、人々がロボットのおかげで、自由気ままに生きることができ、更に裕福になりたい人だけが、色々なところで働いたり、起業したりという事をする未来になった時に、そこに社会的な不平等は果たしてあるのだろうか。

良くも悪くも、責任は自分にあるということが明確にわかる時代になった時に、そこに社会的な不平等があると唱える人は限りなく少なくなっていると思います。


自由を捨てること

最後に僕がこの本で気に入った文章を紹介したいと思います。

貧しい者には自分の自由しか失うものがないのだから、自分に残された唯一の財産[である自由]を、何の代価もなしに自主的に放棄するとすれば、それは狂気の沙汰としか言えないだろう。
調教された馬は鞭や拍車に辛抱強く耐えるが、馴らされていない駿馬は、轡を近づけただけで、たてがみを逆立て、地面を踏みならし、狂ったように暴れる。
同じように野蛮な民は、文明人が文句も言わずにしたがっている首枷に、決して首を差しだそうとはしない。
そして穏やかに屈従することよりも、危険に満ちた自由を選ぶのである。
だから奴隷になった人民の卑屈さを根拠として、人間には屈従する自然の傾向があるのだとは、主張してはならない。
すべての自由な人民が抑圧から身を守るために、どのような奇蹟をなし遂げてきたかに学ぶべきなのである。
奴隷になった人民は、鉄の鎖につながれて享受している平和と安息を、たえず褒めそやしていること、そして「この上なく惨めな奴隷状態を、平和と名づけている」ことは、よく承知している。
わたしは、すべての自由な人民が、自由を喪失した人々からきわめて軽蔑されている財産[である自由]を守るためには、自分たちの快楽も休息も富も権力も、そして生命すら犠牲にするのをみるにつけ、そして自由なものとして生まれた動物が、囚われることを忌み嫌って、捕らえられた檻の鉄棒に頭を打ちつけるのをみるにつけ、さらに多数の赤裸な未開の民が、ヨーロッパ人の悦楽を軽蔑し、飢えも戦火も鉄の鎖も死をも恐れずに、自分たちの独立を守ろうとするのをみるにつけ、自由について語るのは、奴隷のなすべきことではないと実感するのである。


ここでは奴隷という非常にシリアスな場面において、自由の大切さを語っています。
しかし、僕がこの文章を読んで思ったことは、現代の自分たちの人生においての「自由」です。

いま自分は自分のやりたいように生きているか。
誰かの指示や世間体などに動かされて、日々の生活を送っていないだろうか。

天賦の才能を持っているわけではない人が、この世の中にはほとんどだと思いますが、それなら、自分たちが唯一持っている素晴らしいものである「自由」をそう安々と誰かに渡さないで欲しい。

穏やかな屈従よりも、危険に満ちた自由を選ぼう。


今日はこのへんで終わりにしたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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それでは、また明日。


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