(100点)太宰治「道化の華」を情熱的に感想・評価・レビュー

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), Literature(文学), MembersOnly(会員限定), Radio(ラジオ), Thinking(考え)

どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。
突然ですが、皆さん太宰治はお好きでしょうか。
以前、友人に聞いたら、自殺を何度も企てたて、結局最後も自殺してしまったどうしようもない人、という意見をもらいました。
そうかそうか、確かに太宰治=自殺、というイメージが強いし、太宰治読んだことあると言ってる人が挙げてくる作品の大半は「人間失格」か「斜陽」で、このどちらにも自殺という要素は、大きく絡んでくるし、そういうもんかと思ったんですが、僕はというと、太宰治が好きで好きでたまらないです。
ここ一年ぐらいどハマりしていまして、尊敬する人物といったら、スティーブ・ジョブズ、ソクラテス、太宰治というぐらい好きです。

僕は、本を読むときに、太宰治を一冊読んで、他の著者の本を一冊読んで、また太宰治を一冊読んでみたいなことを繰り返しているので、このブログでも早く紹介しなきゃならんとは思っていたのですが、紹介する時間があるぐらいなら読んでいたいという衝動に駆られて夢中で読んでいたのでこのタイミングになりました。これからは太宰治の作品もちょこちょこと紹介していきたいと思います。
太宰治の作品は比較的短編が多いのと、Kindleで無料でインストールしたり青空文庫で全部読めるので、割と取っ付きやすいかなと思います。


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道化の華

今回紹介する作品は、太宰治の処女作「晩年」に収録されている「道化の華」です。

太宰治の作品は、青春の文学と言われることが多くて、若者にはストレートに響くけど歳をとるにつれて、「太宰は青臭い」「太宰への観劇は人生の一時期かかる、はしかのようなものだった」と、太宰文学を卒業したような気になってその後読まなくなる人が多いんですが、そういう人には是非とも「お伽草紙」を読んでくれと言いたくなります。

この「道化の華」は、「お伽草紙」とは正反対のまるっきり青春の文学です。青年たちを滑稽に表現してます。そういう意味では、「人間失格」と似ている部分もあるのですがこの小説の他と違う所は、物語の進行とは別に作者の語りが大いに入ってるという部分です。この手法は「お伽草紙」でもありましたが、「道化の華」の語りはそれとは違います。
「道化の華」の物語は大した進行はありません。進行しない物語ですが、青年たちの行動一つ一つに太宰治自身が語りとなって注釈を入れる部分が妙に刺さってきます。

この物語は、主人公の大庭葉蔵が入水自殺未遂をした直後という設定で始まります。自分だけが助かって、一緒に海に飛ぶ込んだ女性は死ぬという、これは太宰治自身の心中未遂とリンクしているもので、この作品の中で太宰治は自分自身の批評をひたすらに続けます。

自分は道化を演じているピエロそのものであり、自分が作った物語の主人公も道化を演じ、この物語を書いている自分でさえ本当のことは書いていない、何もかも道化で演じているものであり、あらゆる作為がある。だけど、自分は演じずにはいられない。演技をせずに語りを入れずに批評をせずに、書くことなんて自分には不可能だ。自分は物語を描きつつも、どう見られるかを気にしてしまう。解釈は勝手にしてくれなんて強い態度はどうにも取れそうにない。

そんな葛藤を感じます。だけど、だからこそと言ってもいいんでしょうが、物凄く人間味を感じます。
「道化の華」に限らず、すべての太宰治の作品がそうなんですが、物凄く人間味を感じて、自分が感じているけれど言葉にできない感情、そう言ったものが太宰治の作品を読むと、ああこれだ!こう思ってたんだ俺は!と感じます。

太宰治の賛美はこれぐらいにして、「道化の華」の中で僕が特に印象に残った文章を二つ紹介します。



僕はなぜ小説を書くのだろう

僕はなぜ小説を書くのだろう。新進作家としての栄光が欲しいのか。もしくは金が欲しいのか。芝居気を抜きにして答えろ。どっちも欲しいと。欲しくてならぬと。ああ、僕はまだ白々しい嘘を吐いている。このような嘘には、人はうっかり引っかかる。嘘のうちでも卑劣な嘘だ。僕はなぜ小説を書くのだろう。困ったことを言い出したものだ。仕方がない。思わせぶりみたいで嫌ではあるが、仮に一言答えて置こう。「復讐」

僕はこの文章を紹介したいが為だけに、「道化の華」を書こうと思いました。この言葉が本心かどうかなんて、どうだっていい。その時の気分だったのかもしれない。実際他の作品で太宰は「自分にしか書けない美談がある。そういうものは、自分が書かないと、誰にも知られぬまま埋もれてしまう。だから、自分がそれを書くべきだし、書かなきゃならない。」と言っていた。だから、この「復讐」という言葉が、本当の感情なのかはわからない。

だけど、そんな真偽は抜きにして単純に美しいと思った。自分の処女作に、「自分がやってきた理由は復讐です」と答えることができる人が、一体どれだけいるだろうか。スティーブ・ジョブズにどういう心境でiPhoneを作ろうと思ったんですか? と質問して「復讐です」と返ってきたら、驚きだろう。いや、そういう話ではないのかもしれないが。

太宰が、何へ復習しようとしていたのか、世間なのか、文学なのか、家族なのか、恋人なのか、そんなことは何も分からないが、「復讐」という気持ちは凄くよく分かる。僕の場合は、自分の信じた道を突き進んで生きていたいという気持ちがあるのだが、それも言わば復讐というものだろう。自分が死ぬ時か、飽きた時か、名誉を得た時か。そういう最後の時にやっぱり自分のやり方は正しかった! と納得できればそれでいいと思う。自分以外の誰かのやり方に従うなんてそんなことをするぐらいなら、お金も名誉も経験値もいらないと、そんなことを思っている僕はまだ青臭いガキなのか。

作家は、己の姿をむき出しにしてはいけない

この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり気にし過ぎたようである。そのためにこの小説は下品にさえなっている。たくさんの言わでものことを述べた。しかも、もっと重要な事柄をたくさんいい落としたような気がする。これはきざな言い方であるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るようなことでもあるならば、僕はどんなに惨めだろう。おそらくは一頁も読まぬうちに僕は堪え難い自己嫌悪におののいて、巻を伏せるに決まっている。今でさえ、僕は、前を読み返す気力がないのだ。ああ、作家は、己の姿をむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を持って、人は、悪い文学を作る。僕は三度この言葉を繰り返す。そして、承認を与えよう。
僕は文学を知らぬ。もいちど初めから、やり直そうか。君、どこから手をつけてったら良いやら。
僕こそ、混沌と自尊心との塊でなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定を急ぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?

この文章に、何か解釈をつけることなどあるだろうか。そんなものかえって邪魔になるんじゃないかと思ったが、「僕が言うべきことは何もありません。これを読んでの解釈は、各々が自分の心で感じ取ってください。」と書いて終わりにするのは、無責任極まりないし、自分が一番好きじゃない教師のセリフみたいで、恐らく誰の為にもならないだろうと思ったので、僕なりの思ったことを述べたいと思う。

まず、一番気になるところは、惨めな気持ちになって読み返す気力がない、と言う部分だ。これは、非常に共感できる。僕はこの場所で約30個ほどブログを書いたり、動画を撮ったりしてきたが、ほとんど全て見返したことはない。自分の凡作と太宰治のような天才が描いた作品とを同じように考えるのは、おかしいことではあるがそこは一旦抜きにしよう。

僕は何となく恥ずかしくなって、読み返す気が起きないのだが、かと言ってそれを消去したり、中身を編集したりと、そう言うこともしようとは思わない。自分が書いたものは公開した時点で自分の手から離れるものだと思っていて、そこには何人たりとも手を加えるべきではないし、自分では読んで恥ずかしくなるが、これを読んで何か熱い気持ちを抱く人がいないとも限らないので、ずっと残しておくつもりだ。
恥ずかしくなるその要因は「ああ、作家は、己の姿をむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。」と言うこの言葉にすべて詰まっている。つまり、自分の心情をすっかり書いてしまったから、恥ずかしいのだ。

キザな言葉を並べて、この作品はここが良いだとか、この表現は悪いだとか、そんなことを言ってるだけなら、恥ずかしいことも何一つないだろう。自分は何一つ傷つかない立場から物事を言っているのだから。
そんなことをするのは、己のちっぽけながらも確固とした美徳が許さないので、僕はできるだけ自分の心情を一緒に載せている。だからこそ恥ずかしいのだが、だからこそ誰かしらの胸には届くんじゃないかと淡い期待を抱いている。
多分太宰もそうだろう。それをやったらダメだと書きながら、そのダメな箇所を訂正する気は全くない。だから僕はこの文章が好きなのだ。

そして、「美しい感情を持って、人は、悪い文学を作る」という言葉は、この文章で度々出てくるものだ。これもさっきのことに繋がってくるのではないか。
自分が感じたありのままの心情、熱い想い、自分自身への批評、そういうものを載せれば載せるほど文学としては青臭いとか、共感できないとか、様々な批評を生むんじゃないだろうか。

これは、僕が前回書いた又吉直樹の「火花」について、世間のレビューを眺めていたときに強く感じた。僕は火花を読んで、文学作品で初めて泣くほど感動したのだが、世間からの評価は「物語としての起伏がないし、ストーリーとして何がしたいのかわからないから、つまらない」といったようなものが多かった。
それらを読んで、ああ、そういうふうに考える人もいるのかと思った。

僕は、ストーリーなんかは半ばどうとでもなってくれて良くて、それよりも登場人物の熱い感情がどれだけ書かれているかに注目している。だから、火花が好きだし、太宰治の作品が好きだ。
普段の生活でもそうだ。その人が、どんな功績を持っているとか、どんな役職についているとか、どれだけ稼いでいるとかは、全然惹かれないし、自分もそんなことは誰かに語ろうだなんて思わない。

ただ一つ、どれだけ熱い想いを持っているかというそこだけに注目していて、その熱量が大きい人が好きだ。
そして自分もそうなりたいと思っている。
言ってしまえば、お金なんてどうだっていい。生活がままなればそれでいい。また、損得勘定抜きに自分が情熱を込められるものだけやっていたとしても、それが世間から評価を集めれば勝手に入ってくるだろう。それまではただ良いものが生まれるまで続ければ良い。損得勘定抜きで情熱がそこにあるのだから、続けられないわけがない。自分が気の済むまで続けてみて、それで振り返ったときに何の評価も受けられていなければそのときに何か考えればいい。あと、自分が情熱を込められるものは、やろうと思わなくても自然と始めているものだ。
ビジネス的な利益から考えて派生した衝動や行動は、お金が儲けられないと分かった瞬間に何もかもが無駄になる。そんなことに時間を費やすことが僕は一番勿体無い気がする。

僕が文学作品や哲学書が好きなのは、それに情熱が詰まっているからだ。登場人物の心情や作者の思いは、世間的に見れば間違っているかもしれない。だけど、現に僕は感動している。理論整然としているかどうかはどうだっていい。情熱的であるならば、そこには自分の心情と合致したもの、もしくは、自分が知らなかった感情が詰まっている。それを知れただけで、得をしたようなそんな気持ちになる。だから僕は好きだ。

「美しい感情を持って、人は、悪い文学を作る」この言葉は、それを表しているんじゃないか。自分の本心を文章に詰め込んだら、あの人の考えは間違っているだとか、共感できないだとか、現実的じゃないだとか、いろいろな批評を生む。それよりは何も私情は挟まないで、法則や計算式に則った機械的な感情を取り入れた作品の方が、世間から評価されるんじゃないか。そういうことを表していると思った。
だけど太宰治は、美しい感情を持って、悪い文学を作っている。だから、僕は太宰治が好きでたまらない。僕もそうありたい。

最後に

どうだっただろうか。僕がここで紹介したのは「道化の華」のたった二つの文章でしたが、ここは僕が太宰治の作品の中でも特に気に入った文章だ。これを読んでなんか面白そうだなと思って、作品を読んでくれたら幸いです。

太宰治はピエロです。道化です。だけど、それは彼が本心を作品の中に描いているからです。太宰治ほど人の感情を言いあらわせる作家は、僕の中には今のところいないです。

それでは最後に、ここでは紹介しきれなかった印象深かった文章を載せておきますので、時間がある方は是非ご覧になってください。

葉藏は、ほとんど絵筆を投げ捨てた。絵画はポスタアでしかないものだ、と言つては、飛驒をしよげさせた。すべての芸術は社会の経済機構から放たれた屁である。生活力の一形式にすぎない。どんな傑作でも靴下とおなじ商品だ、などとおぼつかなげな口調で言つて飛驒をけむに卷くのであつた

「ここを過ぎて空濛の淵。」
それから最初の書きだしへ返るのだ。さて、われながら不手際である。だいいち僕は、このような時間のからくりを好かない。好かないけれど試みた。ここを過ぎて悲しみの市。僕は、このふだん口馴れた地獄の門の詠歎を、栄ある書きだしの一行にまつりあげたかつたからである。ほかに理由はない。もしこの一行のために、僕の小説が失敗してしまつたとて、僕は心弱くそれを抹殺する氣はない。見得の切りついでにもう一言。あの一行を消すことは、僕の今日までの生活を消すことだ

青年たちはいつでも本氣に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばつている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きつとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知つている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑つて握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め

「失敗したよ。」
ベツドの傍のソフアに飛驒と並んで坐つていた小菅は、そう言いむすんで、飛驒の顏と、葉藏の顏と、それから、ドアに倚りかかつて立つている眞野の顏とを、順々に見まわし、みんな笑つているのを見とどけてから、滿足げに飛驒のまるい右肩へぐつたり頭をもたせかけた。彼等は、よく笑ふ。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顏をつくることは、青年たちにとつて、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであらう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなからうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を氣にしてゐる。彼等はまた、よくひとを笑はす。おのれを傷つけてまで、ひとを笑わせたがるのだ。それはいづれ例の虚無の心から発しているのであろうが、しかし、そのもういちまい底になにか思いつめた氣がまえを推察できないだろうか。犧牲の魂。いくぶんなげやりであつて、これぞという目的をも持たぬ犧牲の魂。彼等がたまたま、いままでの道徳律にはかつてさへ美談と言ひ得る立派な行動をなすことのあるのは、すべてこのかくされた魂のゆえである。これらは僕の独断である。しかも書斎のなかの摸索でない。みんな僕自身の肉体から聞いた思念ではある

小菅の話がそんなにおかしかつたのであろうか。彼等がどのような物語にうち興ずるかの一例として、ここへ数行を挿入しよう。小菅がこの休暇中、ふるさとのまちから三里ほど離れた山のなかの或る名高い温泉場へスキイをしに行き、そこの宿屋に一泊した。深夜、厠へ行く途中、廊下で同宿のわかい女とすれちがつた。それだけのことである。しかし、これが大事件なのだ。小菅にしてみれば、鳥渡すれちがつただけでも、その女のひとにおのれのただならぬ好印象を与えてやらなければ氣がすまぬのである。別にどうしようというあてもないのだが、そのすれちがつた瞬間に、彼はいのちを打ちこんでポオズを作る。人生へ本氣になにか期待をもつ。その女のひととのあらゆる経緯を瞬間のうちに考えめぐらし、胸のはりさける思いをする。彼等は、そのような息づまる瞬間を、少くとも一日にいちどは経験する。だから彼等は油斷をしない。ひとりでいるときにでも、おのれの姿勢を飾つている

葉藏は長いまつげを伏せた。虚傲。懶惰。阿諛。狡猾。悪徳の巣。疲勞。忿怒。殺意。我利我利。脆弱。欺瞞。病毒。ごたごたと彼の胸をゆすぶつた。言つてしまおうかと思つた。わざとしよげかえつて呟いた。
「ほんとうは、僕にも判らないのだよ。なにもかも原因のような氣がして。」
「判る。判る。」小菅は葉藏の言葉の終らぬさきから首肯いた。「そんなこともあるな。君、看護婦がいないよ。氣をきかせたのかしら。」  
僕はまえにも言いかけて置いたが、彼等の議論は、お互いの思想を交換するよりは、その場の調子を居心地よくととのうるためになされる。なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには、思わぬ拾いものをすることがある。彼等の氣取つた言葉のなかに、ときどきびつくりするほど素直なひびきの感ぜられることがある。不用意にもらす言葉こそ、ほんとうらしいものをふくんでいるのだ。葉藏はいま、なにもかも、と呟いたのであるが、これこそ彼がうつかり吐いてしまつた本音ではなからろうか。彼等のこころのなかには、渾沌と、それから、わけのわからぬ反撥とだけがある。或いは、自尊心だけ、と言つてよいかも知れぬ。しかも細くとぎすまされた自尊心である。どのような微風にでもふるえおののく。侮辱を受けたと思いこむやいなや、死なん哉ともだえる。葉藏がおのれの自殺の原因をたづねられて当惑するのも無理がないのである。――なにもかもである

僕は後悔している。二人のおとなを登場させたばかりに、すつかり滅茶滅茶である。葉藏と小菅と飛驒と、それから僕と四人かかってせっかくよい工合いにもりあげた、いつぷう変わった雰圍氣も、この二人のおとなのために、見るかげもなく萎えしなびた。僕はこの小説を雰圍氣のロマンスにしたかつたのである。はじめの数頁でぐるぐる渦を卷いた雰圍氣をつくつて置いて、それを少しづつのどかに解きほぐして行きたいと祈つていたのであつた。不手際をかこちつつ、どうやらここまでは筆をすすめて來た。しかし、土崩瓦解である。  
許して呉れ! 噓だ。とぼけたのだ。みんな僕のわざとしたことなのだ。書いているうちに、その、雰圍氣のロマンスなぞということが氣はづかしくなつて來て、僕がわざとぶちこわしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。悪趣味。いまになつて僕の心をくるしめているのはこの一言である。ひとをわけもなく威圧しようとするしつっこい好みをそう呼ぶのなら、或いは僕のこんな態度も悪趣味であろう。僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかつたのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。こう書きつつも僕は僕の文章を氣にしている

なにもかもさらけ出す。ほんとうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕という男の顏を出させて、言わでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考えがあつてのことなのだ。僕は、それを読者に氣づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚れていた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへていた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言いたかつた。いや、この言葉をさえ、僕ははじめから用意してゐたような氣がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言うことをひとことも信ずるな

僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言つていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちつとも触れていないような氣がする。それは当然であろう。たくさんのことを言い落としている。それも当然であろう。作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の效果を期待した僕は馬鹿であつた。ことにその效果を口に出してなど言うべきでなかつた。口に出して言つたとたんに、また別のまるつきり違つた効果が生れる。その效果を凡そこうであろうと推察したとたんに、また新しい効果が飛び出す。僕は永遠にそれを追及してばかりいなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでない出来栄か、僕はそれをさえ知ろうと思うまい。おそらくは、僕のこの小説は、僕の思いも及ばぬたいへんな価値を生むことであろう。これらの言葉は、僕はひとから聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい氣にもなるのであろう。はつきり言えば、僕は自信をうしなつている

「そうだ。着物を持つて来たんだ。そこへ置いたよ。」顎でドアの方をしゃくった。  葉藏は、ドアの傍に置かれてある唐草の模様がついた大きい風呂敷包に眼を落し、やはり眉をひそめた。彼等は肉親のことを語るときには、いささか感傷的な面貌をつくる。けれども、これはただ習慣にすぎない。幼いときからの教育が、その面貌をつくりあげただけのことである。肉親と言えば財産といい単語を思い出すのには変わりがないようだ。「おふくろには、かなわん。」

小菅は葉藏をふびんだと思つた。それは全く、おとなの感情である。言うまでもないことだろうけれど、ふびんなのはここにいるこの葉藏ではなしに、葉藏とおなじ身のうえにあつたときの自分、もしくはその身のうえの一般的な抽象である。おとなは、そんな感情にうまく訓練されているので、たやすく人に同情する。そして、おのれの涙もろいことに自負を持つ。青年たちもまた、ときどきそのような安易な感情にひたることがある。おとなはそんな訓練を、まず好意的に言つて、おのれの生活との妥協から得たものとすれば、青年たちは、いつたいどこから覚えこんだものか。このようなくだらない小説から?

葉藏は別なことを考えていた。園の幽靈を思つていたのである。美しい姿を胸に画いていた。葉藏は、しばしばこのようにあつさりしている。彼等にとつて神という言葉は、間の拔けた人物に与えられる揶揄と好意のまじつたなんでもない代名詞にすぎぬのだが、それは彼等があまりに神え接近しているからかも知れぬ。こんな工合いに軽々しく所謂「神の問題」にふれるなら、きつと諸君は、浅薄とか安易とかいう言葉でもつてきびしい非難をするであろう。ああ、許し給え。どんなまずしい作家でも、おのれの小説の主人公をひそかに神へ近づけたがつているものだ。されば、言おう。彼こそ神に似ている。寵愛の鳥、梟を黄昏の空に飛ばしてこつそり笑つて眺めている智慧の女神のミネルヴァに

ひと一人を殺したあとらしくもなく、彼等の態度があまりにのんきすぎると忿懣を感じていたらしい諸君は、ここにいたつてはじめて快哉を叫ぶだらう。ざまを見ろと。しかし、それは酷である。なんの、のんきなことがあるものか。つねに絶望のとなりにいて、傷つき易い道化の華を風にもあてずつくっているこのもの悲しさを君が判つて呉れたならば!

彼等は、おのれの陶酔に水をさされることを極端に恐れる。それゆえ、相手の陶酔をも認めてやる。努めてそれへ調子を合せてやる。それは彼等のあいだの黙契である

どだいこの小説は面白くない。姿勢だけのものである。こんな小説なら、いちまい書くも百枚書くもおなじだ。しかしそのことは始めから覚悟していた。書いているうちに、なにかひとつぐらい、むきなものが出るだろうと楽観していた。僕はきざだ。きざではあるが、なにかひとつぐらい、いいとこがあるまいか。僕はおのれの調子づいた臭い文章に絶望しつつ、なにかひとつぐらいなにかひとつぐらいとそればかりを、あちこちひつくりかえして搜した。そのうちに、僕はじりじり硬直をはじめた。くたばつたのだ。ああ、小説は無心に書くに限る! 美しい感情を以て、人は、悪い文學を作る。なんという馬鹿な。この言葉に最大級のわざはいあれ。うつとりしてなくて、小説など書けるものか。ひとつの言葉、ひとつの文章が、十色くらいのちがつた意味をもつておのれの胸へはねかえつて来るようでは、ペンをへし折つて捨てなければならぬ。葉藏にせよ、飛驒にせよ、また小菅にせよ、何もあんなにことごとしく氣取つて見せなくてよい。どうせおさとは知れているのだ。あまくなれ、あまくなれ。無念無想

「あの女のことを話してあげようか。」  
やはり眞野へ背をむけたまま、つとめてのろのろとそう言つた。なにか氣まづい思いをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしゃらにその氣まづさを徹底させてしまわなければかなわぬ悲しい習性を葉藏は持つていた。
「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言わぬさきから葉藏は語りはじめた。「もう誰かから聞いただらう。園というのだ。銀座のバアにつとめていたのさ。ほんとうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかつたよ。飛驒も小菅もこの女のことだけは知らなかつたのだからな。僕も教えなかつたし。」よそうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互いにまつたくちがつたことを考えていたらしい。園は海へ飛び込むまえに、あなたはうちの先生に似ているなあ、なんて言いやがつた。内縁の夫があつたのだよ。二三年まえまで小学校の先生をしておたのだつて。僕は、どうして、あのひとと死のうとしたのかなあ。やつぱり好きだつたのだろうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだらう。「僕は、これでも左翼の仕事をしていたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやつたり、柄にないことをしていたのさ。滑稽だ。でも、ずいぶんつらかつたよ。われは先覚者なりという榮光にそそのかされただけのことだ。柄じゃないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけじゃないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食うに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だらうな。」ああ、言えば言うほどおのれが噓つきで不正直な氣がして來るこの大きな不幸! 「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんとうは僕、画をかきたいのだ。むしょうにかきたいよ。」頭をごしごし搔いて、笑つた。「よい画がかけたらねえ。」  
よい画がかけたらねえ、と言つた。しかも笑つてそれを言つた。青年たちは、むきになつては、何も言えない。ことに本音を、笑いでごまかす

小菅は口を大きくあけて、葉藏へ目くばせした。三人は、思いきり声をたてて笑い崩れた。彼等は、しばしばこのような道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言い出すと、もはや葉藏も飛驒もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすじをちゃんと心得ているのである。彼等は天然の美しい舞台裝置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞台の背景は、朝の海である

「そうか。いいところがある。」小菅は大喜びであつた。彼等はひとの醜聞を美徳のように考える。たのもしいと思うのである。「勲章がめかけを持つたか。いいところがあるよ。

ポンチ画の大家。そろそろ僕も厭きて來た。これは通俗小説でなかろうか。ともすれば硬直したがる僕の神経に対しても、また、おそらくはおなじような諸君の神経に対しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかつた一齣であつたが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は氣が狂つたのかしら、――諸君は、かへつて僕のこんな注釈を邪魔にするだろう。作家の思いも及ばなかつたところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を大声で叫ぶだろう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらえている愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見当はずれの注釈ばかりつけている。そして、まずまず注釈だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつっぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やつぱり甘ちゃんだ。そうだ。大発見をしたわい。しん底からの甘ちゃんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩いをしている。ああ、もうどうでもよい。ほつて置いて呉れ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだようだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそい。「もう沢山だ。奇蹟の創造主。おのれ!」

「ほつとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだつていいのだ。それに氣がついたときは、僕はあの岩のうえで笑つたな。ほつとするよ。

僕たちはそれより、浪の音や鷗の声に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思い起そう。みづからを現実主義者と称している人は言うかも知れぬ。この四日間はポンチに滿ちていたと。それならば答えよう。おのれの原稿が、編輯者の机のうえでおおかた土瓶敷の役目をしてくれたらしく、黒い大きな燒跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾をくぐるのに、それでも襟元を搔き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送つている。そのような現実にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆつくりゆつくりなつかしもう。たつた四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たつた四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある

ここで結べたら! 古い大家はこのようなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このようなごまかしの慰めに、もはや厭きている。お正月も牢屋も検事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいつたい、検事のことなどをはじめから氣にかけていたのだらうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があろう。いささかの期待をそれにのみつないでいåる

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