ルソーの「孤独な散歩書の夢想」より、実際の不幸は想像の不幸より遥かに劣るということについて

投稿日: カテゴリー: Australia(オーストラリア), Blog(ブログ), Philosophy(哲学), Thinking(考え)

どうもこんにちは、SenKuSya代表のKotaです。

最近読んでいる、ジャン=ジャック・ルソーの「孤独な散歩書の夢想」に、とても面白い記述があったので、今回はそれについて考察していきたいと思います。


動画・音声

動画を閲覧したい方はこちら

音声のみの視聴・ダウンロードはこちら(25.05 MB)

このコンテンツを閲覧するにはログインが必要です。→
会員登録はお済みですか? 会員について


不安はいつ訪れるか

実際に不幸になるより、いつどんな不幸が襲ってくるのかと不安にびくびくしているときのほうが百倍もつらい。攻撃そのものよりも、攻撃するぞという脅しのほうがよほど恐ろしいのだ。実際にことが起こってしまえば、あれこれ想像を働かせる余地はなく、まさに目の前の現状をそのまま受け入れればいいのだ。実際に起こってみると、それは私が想像していたほどのものではないことが分かる。

そもそも不安に襲われる場面というのは、どんな場面だろうか。

誰かに攻撃されているかもしれないとかの、外的要因から来るものを除けば、その他は自分由来で来るものになるはず。

誰かに攻撃されることなんて日本では少ないし、危ない場面によくいかなければ、外的要因などは特に問題にならないだろう。

だから、今回は自分由来でくるものについて考えていこうと思う。

自分由来でくるものというのはどんなものだろう。

自分のスキルに自信がない時などに、よく当てはまるのではないだろうか。

自分のスキルに自信がないというのは、そのスキルに関して経験を充分に積んだと、自分自身が感じていないからだろう。

新しい場所に旅立つときや、新しい仕事を始める時などに、それは今までやったことではないのだから、上手く行かないかもしれないという不安にかられるのは当然だ。

しかし、自分の頭で考えているそういった不安なんてのは、大抵の場合が実際に起こってみると大したことはないというのが、今回の話だ。

逆に言うと、不安に怯えていることのほうが、百倍もつらい。

そう考えると、不安に怯えることなんてのは、ただ自分をつらくするためだけのように思える。

皆さんは、不安と比べると実際は大したことはなかった、という経験などはあるだろうか。

僕はある。上京したときや、オーストラリアに来たときなどや、仕事を変える時などがそうだった。

この中で最も最近のことである、オーストラリアに来たときのことについて、少し話そうと思う。


僕が、オーストラリアに来たのは、単に英語圏の温かい国に住んでみたかったからだ。

それ以外は特になかったので、僕にオーストラリアで生きていく知識など何一つなかった。

そして、家も、仕事も、住む場所も、スマホも、銀行口座も、何も知らずにこの地へやってきた。

しかし、現在まだ3週間しか経っていないが、家も、仕事も、住む場所も、スマホも、銀行口座も、全て手に入れることはできた。

だから、そういったものが見つかるかなんて不安は、実はどうってことないのだ。

きっちり準備をしないといけない人は、こんな時、滞在先の事を綿密に調べ上げて、できることなら全てを決定してから来るのだろう。

しかし、そんなことは殆ど不可能なのだ。

なぜなら、現地で何が起きるかなんてことは、行ってみないと分からないからだ。
経験もないのに、何が必要なのかなんてことを詳細に知る術は、ほとんどない。

そもそも、詳細な情報が分かっているのならば、不安になどならないはず。

ということは、この不安というのは、避けられないものだということになる。

自分の頑張りによって、不安材料を少なくすることは出来るが、その不安材料の数によって、不安になる度合いは人それぞれ違う。

僕は可能な限りいっぱいの不安材料を運んでいったのだが、当の本人である僕が感じていた不安は殆どなかった。

家がなくてもホテルに泊まればいいし、仕事がなかったら、どんどんレベルを下げて、給料が安い仕事でもすればいいと思っていた。言語が通じなかったら、googleに全てを頼ろうと思っていた。

そして、最悪の場合でも、仕事が無く出費がかさむという上京から抜けられず、帰国することになるだけだ。
帰国したら、日本の東京はどういう状態なのか既に把握しているのだから、アルバイトなどなんでもして生活が出来ることは分かっていた。
だから、不安に感じることなどさほど無かった。

そして、運良くというか、当然というか、そんな最悪な状況などもちろん起こることもなかった。
不安からくる想像は、現実と比べて遥かに悲観的だからだ。

また、現地に来てから、町並みを初めて知り、物価を初めて知り、生活様式を初めて知り、驚くことはあったが、そんなものは最初から知っていようと、後から知ろうと、避けられないのなら大して変わらない。

僕はこの経験を通しても、不安なんてものは、一切感じなくても生きていけるんじゃないかと思っている。


むしろ、不安というのは、何の為にあるのかを考えてみたい。

不安は、人類の危機管理能力が発達するにつれて、出来たものなんだろう。

人間以外の動物は、恐怖の感情はあれども、不安という感情は少ないだろう。

不安という感情は、未来の事を想像することで生まれるものだからだ。

僕たち人間にとっては、未来なんてものは、容易に想像できるように感じるかもしれない。

しかし、それは見えるように感じているだけであって、見えることなんて決して無いのである。
人生において予想なんてものは、ほんの短期間においてしか立てられるものではない。

僕は、想像することができる未来の長さは、最長で1ヶ月だと思っている。
1ヶ月以上経つと、自分の身の回りの状況はかなり変化しているはずだ。

そんなかなり変化した状態の未来を、どうやって想像することが出来るだろうか。

不安からくる想像は、今現在の状況から、自分自身も全く成長せず、自分を取り巻く環境も全く変わらないという、前提の上に成り立っている。
そんなことは殆どありえないだろう。

そして、その二つの前提の上に成り立っているのならば、少なくとも、自分が動き出せば、現実は不安からくる想像から、逃れられるということにもなる。

まとめとして、僕が今日言いたかったことは、不安からくる想像なんてものは、大して気にしなくていいということだ。

ましてや、不安が、次なるステップへの挑戦のストッパーになっているのならば、それは物凄く勿体無い。

不安というものは、想像上の世界でしか無く、そんなものは殆どの場合起こり得ないので、自らの危機管理能力が上昇しているのだな、というぐらいの感想に留めておくぐらいでいい、と僕は思っている。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

それでは、また明日。

本文中に出てきた作品


少しでもいいなと思ったらシェア・いいね! よろしくお願いします!

コメントを残す