(97点)ピース又吉直樹「劇場」を情熱的に感想・評価・レビュー

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), Literature(文学), MembersOnly(会員限定), Radio(ラジオ)

どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。

最近読んだ又吉直樹の新作「劇場」が非常に良かったので、今回はそれを3つの視点からまとめていきたいと思います。
以前佐野さんがまとめた記事もありますので、そちらもご覧ください。

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簡単なあらすじ

一応読んだことない人のために簡単にあらすじをまとめておきます。

一番 会いたい人に会いに行く。
こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。
夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った――。

『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、
書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。

夢と現実のはざまでもがきながら、
かけがえのない大切な誰かを想う、
切なくも胸にせまる恋愛小説。

恋愛小説ではない

まず、一番最初にこれだけはどうしても言いたいんですが、この本は恋愛小説ではありません。上の紹介文では恋愛小説って書いてしまってるんですが、恋愛要素は最後のところしかないんですね。

じゃあ一体この主題は何なのかと言うことは、それは夢追い人の感情表現です。

ちょっと分かりにくいと思うので、もう少し詳しく説明します。

この物語の主人公は演劇作家であり、役者でもあります。そして、それをひたすらに続けています。収入がなくても、面白くないと否定されても、他人の圧倒的才能を見せつけられても、世間体を持ち込まれても、それでも演劇から一切離れようとしません。

物語の内容は演劇がメインです。そんな主人公が思う「演劇とは?」の問いはずばり次の言葉で表現されてるんです。

物語の力というのは、現実に対抗しうる力であり、そのまま世界を創造する力でもある。
演劇は実験であると同時に発見でもある。演劇で実現できたことは現実でも再現できる可能性がある。

これは単なる主人公の心情表現ではないんですね。そのまま又吉直樹としての考えなんですね。

つまり「劇場」というこの作品も含めて、演劇または物語というのは思考実験だと考えてるんですね。そこに書かれているものは実話じゃないけど、現実に成り得るものなんですね。

これは、僕が文学作品や伝記を読む上でいつも大事にしていることと似てました。自分がなぜ頭と時間を使ってまでそういったものを読むかと言えば、それがそのまま自分の経験値となるからです。あらゆる状況の、あらゆる手段を知れば、自分が感じれない世界、自分が生きていない時代のことまで経験できて、それは必ず自分の人生に活用できるとそう思っているからですね。

太宰治の「人間失格」、又吉直樹の前作「火花」と比べる

この作品を読んで、一番すぐに思い浮かんだのが太宰治の「人間失格」です。主人公の主張や心情は全く違いますが、主人公がダメ男具合と、恋人の純粋具合に関しては、「人間失格」を参考にしたんじゃないかと思うほどです。

「人間失格」は何だかんだで誰でも一度くらいは読んだことあるんじゃないかと思うんですが、そこに書かれている主人公はどうしようもなくダメ男なんですね。そしてその主人公に寄り添ってくれる女性はとても純粋な人物として描かれています。本当にいそうな人物というよりは、ただ単に純粋さだけを際立たせた、いわば純粋の権化の様な象徴的人物として描かれています。「こんな女性、現実に存在しないだろ」という指摘はナンセンスで、書いてる太宰もそれを分かって、かつ読者もそれを理解して読んでる、そんな暗黙の了解が成り立つ感じで上手く描かれています。

そして、この「劇場」に出てくる、主人公の永田と、その恋人の沙希もそれに非常に似ています。ただ「人間失格」の主人公ほどダメ男ではなく、恋人も「人間失格」ほど純粋の権化の様に描かれていない。「人間失格」の時代背景は昭和初期なのに対し、この作品はそれを現代に置き換えて、より現代風に、かつマイルドにした形で表現しているんです。

だから、読者の中には、より現実世界と照らし合わせてしまう人もいるんじゃないかと思います。それを感じたのは、この作品のレビューを見ると「主人公がダメ男すぎる」や「こんな純粋な女の子存在しない」とか書かれているのを多く見たからです、だけど、その指摘はやはり「人間失格」の時と同様にナンセンスなんですね。それを分かって又吉は書いていて、読者もそれを分かって読む。登場人物は際立たせた方がより言いたいことがすんなり入ってきますからね。そういう人物を描いているんですよ、って明示している部分が次の言葉でしたね。

感情に従順である人間を僕は恐怖の対象として見ていたが、そういう人間こそを尊いと思うようになった。

僕としては、現代の文学作品で「人間失格」の様な、ダメな男とそれに寄り添う純粋な女性を描いた作品はあまりないと思っていて、そんな中この作品はとても上手にそれを表現していて、ものすごく読み応えがあり面白いんです。

また、又吉直樹と言えば、前作「火花」で芥川賞を受賞したことで有名ですね。この「火花」に出てくる天才肌の先輩芸人・神谷と、「劇場」の主人公・永田は殆ど同じ特徴の人物として書かれているんです。自分は芸術のために働こうとはせずヒモ男となっているとという部分においてです。「火花」の主人公である徳永は、そんな神谷を見て憧れつつも、そこまではどうしても振り切れないという葛藤を描いていました。しかし「劇場」の主人公の永田はそういう意味でふっ切れています。なので、「火花」の神谷Ver.として読んで見るとさらに一層面白く感じるのではないでしょうか。

ヒモ男の魅力

夢だけを追うヒモ男には魅力があります。誰でも一度は憧れると思います。しかし、そんな甘くない現実や、世間体を気にして、取り敢えず角が立たない様な生き方をしているって人が世の中には多い様な気がします。だからこそ、「好きなことをして生きる」みたいな謳い文句がどこでも流行ってるんだと思います。

現代の日本でそういう生き方をするのは、例えばYoutuberになって人気者になって稼ぐとか、不動産やその他の不労収入で暮らすとか、兎にも角にもサラリーマンと同じやそれ以上の稼ぎや資産が必要だと思われがちです。しかし、本当に純粋に夢を追いたくて、世間体も全く気にならないのだとしたら、東京で安い家賃のアパートに住んで、生きていくのに本当に必要最低限の収入を短いアルバイト時間で稼ぎ、他の活動時間は全て自分の夢に当てるということもできます。その時間で、例えば絵をひたすら描き続けるでも、ひたすらプログラミングをするでも、ひたすら役者の練習に打ち込むでも、ひたすら読書をして知識を蓄積するでも、ひたすら芸に打ち込むでも、要は何でもやりたいことはできます。

そういう生き方って、別にハードルが高いわけでは無いし、本当に夢を追いたい人なら、他のあらゆることは気にせず実践してるんじゃないかって思います。

だから、本当は言い訳を作って逃げて自分を正当化してるだけなんじゃないか? やりたいなら後先考えず動き出せよ。 ビビってるだけじゃないか? 夢を追うために生きてる自分に保険なんて必要ないだろ?

そんなことを深く考える小説でした。また作品中でも夢を追うことについて次の様に書かれていました。

好きな仕事で生活がしたいなら、善人と思われようなんてことを望んではいけないのだ。恥を撒き散らして生きているのだから、みじめでいいのだ。

また、夢を追うことにあと一歩踏み出せない人には次の言葉も同様に送りたいと思います。

僕は期待することをやめた。誰からも愛され、誰からも認められるなどというのは万人に付与された絶対的な権利ではなく、選ばれたものだけに与えられるものだと割り切ることにした。自分に与えられた特権は自ら行動できるという一点のみだ。自分の表現を自由に追求できることこそが僕の人生に与えられた価値であると信じてみることにした。

この夢を追うとったテーマは「火花」の時も描かれてはいましたが、「火花」の主人公は結果的には夢を諦める形になってしまったので、よりこっちの方がそれだけを純粋に追い求めて書いています。

最後に

余談ですが、「劇場」の最後に書かれていた演劇に似せたやり取りは、「火花」で芸人として最後の公演の時に行なった手法を完全に再利用してましたね。だけど、何度やってもやっぱり良いものは良いなと思いました。

「劇場」と「火花」を読んで思うことは、又吉直樹は夢追い人とその葛藤を描くのが圧倒的に上手いってことですね。夢を追おうと葛藤している人、もしくは、振り切ってもう夢に向かって全力疾走してる人、そのどちらにも読んでほしいなと思いました。

印象に残った文章

それでは、最後に僕が印象に残った文章を載せて終わりにしたいと思います。

君たちが俺に言うてることって、俺が君たちに言うたことと一緒やで。人の可能性は平気で蹂躙するくせに、君たちの希望は擁護するんや。

そもそも、そんな前向きにいきていけるんやったら、演劇なんてやらんよ。勉強しなさい。綺麗な服着なさい。髪型ちゃんとしなさい。美しい言葉を使いなさい。それに疑問も持たんと全部言う通りにしてきた人間がどう間違えたら大学も行かんと働きもせんと東京出てきて劇団なんて始めてんの? 表現に携わるものは一人残らず自己顕示欲と自意識の塊やねん。俺も君たちも。相手から受ける攻撃減らすために笑ってるだけやろ。そもそも、はなからバカにしてた君たちに否定されたところで反省しようとは思われへんな。あと演劇って一般論が介入できないとこやと思ってるから、一般論を語りたいだけのやつとは話されへんな。たとえ、俺の言うてることが君たちの知ってる一般論に含まれていたとしてもな。

こうやって僕は自分と誰かの眼の狭間で折り合いをつけて何かをもがれていくのだろうか。いや、自分から生まれた発想が本当に自分を突き動かす力を持っていたら、僕は他人の評価などにかまわずに、なんでもやってしまうだろう。結局そこまでの水準に達していないのだ。何が足りないのか。実践的なことを試すことが悪いとは思わない。今までも散々似たような挑戦をして失敗を繰り返してきた。一つの発想だけを拠り所にして最終的にバカバカしいオチがあると言う流れに自分でも飽きてきているのではないか。仕掛けが先にあるのではなくて、もっと感情が様式をなぎ倒すような強靭なものを作りたい。自分の演劇を作りたいという欲求は趣味という言葉で片付けてしまっても良いのかもしれない。では、その趣味が演劇でなければいけない理由が自分の中にあるのか。ある。あるという感触がほとんど確信としてある。だが、あるということしか現段階ではわからない。そこに具体的な理由がつけられない。演劇が世界に対してできることはなんだろう。そもそも社会的なものである必要などないのだろうか。僕の苦悩や怨念めいた何かを世の中に吐き出すためのツールとして演劇を使おうとしている時点で古いのだろうか。演劇は、もっと軽やかなものなのだろうか。

僕のような暮らしをしていれば生活に期待などしないし、必要なものも、欲しいものもなかったから、ある意味では楽だった。誰にも好かれていないから嫌われないように努力する必要がないという楽さに似ている。

劇的なものを創作から削除したがる人のほとんどは、作品の都合で平穏な日常を登場人物に与えていることに気づいていない。殺人も戦争もある世界なのに馬鹿なんじゃないかと思う。

簡単なものを複雑にすることを人々は許さないけど、複雑なことを簡単にすると褒める人までいる。本当は複雑なものは複雑なものでしかないのに。結局、自分たちの都合のいいようにしか理解しようとしていない。それを踏まえた上でなら簡単と複雑の価値が対等なように、劇的なものと平凡な日常も創作上では対等でなければおかしい。「劇的なものが好きだ」とか「平穏な日常を描いてこそだ」とかは、それぞれの好みに過ぎないから決まりみたいに言われても、「知らねえよ」という感想のほか特に思うことはない。

「努力と止めたら人はダメだね。そこで終わるね」
やかましいおじさんが口のはしに不潔な泡を留めながら必死の形相で誰もが聞いたことのあるフレーズを繰り返している。こういうのは好きな人に言われないと効果がない。

感情に従順である人間を僕は恐怖の対象として見ていたが、そういう人間こそを尊いと思うようになった。

ヒップホップは、その渦に個々の喜びや痛みをぶつけ起爆し続けているジャンルだからこそ、際限なく視野を拡げることに成功しているのだと思う。表現者の自己救済だけではなく、その根幹に遊戯として楽しもうとする大衆性が備わっていることは、創作する動機として理想だと思った。ここではないどこかへ行きたいと願うことと、ここではない別の場所を自分たちで作ろうとすることは似てはいるが、決定的に違うものだ。

好きな仕事で生活がしたいなら、善人と思われようなんてことを望んではいけないのだ。恥を撒き散らして生きているのだから、みじめでいいのだ。

比べたら笑われるんやろうけど、俺は自分で創作する人間やから、ディズニーランドで好きな人が楽しんでるのを見るのは耐えられへんねん。他の劇団の公演を好きな女と一緒に観に行った劇作家が、好きな女が感動してるのを観て、「幸せだな」と思ってたらアホやろ?

時間は本当に過去から現在に向かって一定の法則で進んでいるのだろうかという疑問に向き合ってみたかった。「過去にこだわるのはみっともない」というのは本当だろうか。時間は本当に過去から現在に向かって一定の法則で進んでいるのだろうかという疑問に向き合ってみたかった。「過去にこだわるのはみっともない」というのは本当だろうか。

優しい人の顔を見ながらでは血だらけで走ることはできない。自分の弱さを隠しきれなくなり、寄りかかってしまいそうになるからだ。

青山は単純に世間という感覚を僕の生活に吹き込んだ。自分が同世代の中で、どの程度の暮らしをしているのかと行った類の圧倒的にリアルな日常の匂いを持ち込んだ。今までは無縁だった大人としての常識らしきものに毒され始めたのだと思う。

芸術というものは、何の成果も得ていない誰かが中途半端な存在を正当化するための隠れ蓑ではなく、選ばれたものにだけ与えられる特権のようなものだという残酷な認識を植え付けられた。

嫉妬という感情は何のために人間に備わっているのだろう。なにかしらの自己防衛として機能することがあるのだろうか。嫉妬によって焦燥に駆られた人間の活発な行動を促すためだろうか、それなら人生のほとんどのことは思い通りにならないのだから、その感情が嫉妬ではなく諦観のようなものであったなら人生はもっと有意義なものになるのではないか。自分の持っていないものを欲しがったり、自分よりも能力の高い人間を妬む精神の対処に追われて、似たような境遇のもので集まり、嫉妬する対象をこき下ろし世間の評価がまるでそうであるように錯覚させようと試みたり、自分に嘘をついて感覚を麻痺させたところで、本人の成長というものは期待できない。他人の失敗や不幸を願う、その癖、そいつが本当に駄目になりそうだったら同類として迎え入れる。その時は自分が優しい人間なんだと信じ込もうとしたりする。この汚い感情は何のためにあるのだ。人生に期待するのはいい加減やめたらどうだ。自分の行いによってのみ前向きな変化の可能性があるという健やかさで生きていけないものか。この嫉妬という機能を外してもらえないだろうか。

自分の悪い所なんていくらでも言える。才能のないことを受け入れればいい。嫉妬している対象の力に正々堂々と怯えればいい。理屈ではわかっているけれど自分では踏み切れない。人に好かれたいと願うことや、誰かに認められたいという平凡な欲求さえも僕の身の丈には合っていないのだろうか。

僕は期待することをやめた。誰からも愛され、誰からも認められるなどというのは万人に付与された絶対的な権利ではなく、選ばれたものだけに与えられるものだと割り切ることにした。自分に与えられた特権は自ら行動できるという一点のみだ。自分の表現を自由に追求できることこそが僕の人生に与えられた価値であると信じてみることにした。

お前の思考には人間が変化するという当然の摂理が抜け落ちている。同時に自分と他者が同じであるという間違いを信じきっている。定点でしか物事を見ることができない。それがお前の一番の欠点や。あらゆるものは動いている。人は変わる。すべての理屈は「状況による」という条件付きの元でしか成立せえへんねん。いつも、どんな話題でも最終的にお前が主張するのは「私の権利を認めよ」という一点に帰結する。自分の書いたものを読み返してみろ。その「私」と「世界」がイコールになっていないのもお前の浅い部分。お前は結局、自分と似た者しか許さない。吐き気がするね。お前が主張する権利は認められるべきものやとは俺も思う。ただ、それも条件付きで。お前の話を全部鵜呑みにしようとすると、例えば自分の母親の人生には何の意味もなかったかのような錯覚に陥る。父のいいなりで、子供のいいなりで、自分のやりたかったことは? と聞かれた時に何も答えることだできない無力さという意味で。ただし、人間には依存するという権利もあることを忘れるな。お前が、西洋の差別的文化へのカウンターで生まれた思想を簡単に受け入れることができてしまうのは、お前が対人において、それに似た扱いを受けてきたからやと思う。だから、お前の言葉はカタカナばっかりやねん。お前自身が自分を守る思考を持つのは勝手やけど、それを他の人間にも強引に当てはめようとすんな。母のような人間は、お前の価値観に蹂躙されて、「全部間違ってました」と負い目を感じて生きて行かなあかんのか? そんなはずないやろ。お前の鈍感さで誰かの人生を汚すな。お前は自分の大切な人生と、それに共感する人達と、その感覚を健やかに育てればいい。多くの人がお前と同じ考え方を持って幸せに暮らせているなら俺も祝福する。でも、今はまだ違うやろ? いろんな価値観が混在してるやろ? 振り回すな馬鹿。勝手に広い大地に攻め込んでいって「君らの信じている神様はタコだよ。我々の神様を信じなさい」とかいうてる暴力的な輩と同じように見えんねん。

物語の力というのは、現実に対抗しうる力であり、そのまま世界を創造する力でもある。
演劇は実験であると同時に発見でもある。演劇で実現できたことは現実でも再現できる可能性がある。

沙希ちゃんは実家に帰る。そこで働きながら元気になる。今も元気やけど、もっとってことな。ほんで俺は演劇を続けて、飛躍的な成長を遂げてな、アホみたいな言葉やけど認められるかもしれへん。いっぱいお金を稼げるかもしれへん。そしたらな、その時にはさきちゃんも元気になってるからな、いっぱい美味しいものを食べに行くことができる。フグの薄造りっていうの? あれを箸で一気にすくって食べよう。一回やってみたかってん。沙希ちゃんはウニが好きやから、ウニを丼山盛りにして食べ続けたらいいよ。いやな顔されたら次の店に行こう。でも、もうお腹は膨れてるやろうから特急列車に乗って温泉に行こう。海が見える露天風呂に入って朝焼けを見よう。寝過ごさへんように目覚まし時計をセットして、朝食はちゃんと食べような。白飯と味噌汁と焼き魚と納豆。ほんで、昼間は雰囲気の良い喫茶店で珈琲を飲みながら小説を読もう。それは、ずっとやってきたことやったな。ほんなら、海外で一緒にテーマパークに行こう。すべての乗り物に二回ずつ乗ろう。その時にはパスポートちゃんと持ってるからな。沙希ちゃんの好きなもん全部買ってあげるからな。そうや、財布買うたるわ。俺が大昔にあげたのボロボロになっても使ってくれてたもんな。あれ一回、沙希ちゃん落として泣きながら帰ってきたことあったの覚えてる? 一緒に駅まで探しに行ったら、道路脇の排水溝ギリギリのとこにあって、大騒ぎしたよな。そうや、財布買いに海外に行こう、思い切って着物で行くっていうのもいいかもな。そんな日があってもいいやろ。近所の人が飼ってる犬に勝手に名前をつけて自分たちが飼ってるみたいにしよう。違う、これも実際にあった思い出やった。「竹尾」元気かな? まぁ、ええか。ものすごい大きな犬を飼おうや。ほんでルーフバルコニーがある大きな家に住もう。芝生の庭があって、季節の花を咲かせよう。CDも小説もDVDもなんでも買いたい放題。楽しい日々を過ごして、還暦を迎えたら、何色かわからんような茶碗を買って、ちょうどいい温度のお茶を入れて飲もう。

僕は長い間、一人で話し続けていた。
「ごめんね」と沙希は泣きながら言った。

沙希ちゃん、セリフ間違えてるよ。帰ったら沙希ちゃんが待ってるから、俺は早く家に帰るねん。誰からの誘いも断ってな。一番会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが、なんでできへんかったんやろな。沙希ちゃんが元気な声で、「おかえり」っていうねん。言えるよな? 大きな犬も俺の肩に飛びついてきて、ちょっと肩噛まれるけど、その時は痛み感じへんくらい俺も犬好きになってるから。
ほんで、カレー食うて、お腹いっぱいになったら、一緒に近所を散歩して、梨を食べよう。今度は俺が剥いたる

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