(100点)ピース又吉直樹「火花」を情熱的に感想・評価・レビュー

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), Literature(文学), Self‐development(自己啓発), Thinking(考え)

どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。

最近情熱に関して、思うところがたくさんあるなと思ったので、今日は情熱をテーマにした小説である、又吉直樹の「火花」について語っていきたいと思います。

「火花」については、以前も取り上げたことがありましたが(火花を読んで。理想を生きるということ。)、前回は基本的に動画で僕が話しているだけで、記事としては残っていなかったのと、その時の気持ちと今では、また気持ちが変わっているなと思ったので、今回改めて、記事としてきちんとまとめたいと思います。

ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ

後ほど追加します。

情熱を持って生きているか

自分の原動力はなんなのか。自分は何のために、エンジニアとして働いたり、ブログを書いたり、アプリを作ったり、文学を読んだりしているのか。

絶対に違うと言えることは、決してお金のためではないということだ。それが目的なら、もっと効率の良い手段はあるだろう。
何のためにやっているのかと問われれば、それが自分の心を果てし無く躍らせるからだ。
逆に言えば、今やっていることでも、今までずっと続けてきたことでも、それが自分の心を今までのように最高に踊らせなくなったと感じたのなら、いくら今までそこにお金と時間と努力を費やしてきたとしても、颯爽とやめるべきだと、僕は思っている。

だからこそ、自分が今やっていることについては、毎日毎日、その行動を起こす前に、一度、「本当にこれを、今自分はやるべきなのか?」という問いをかけるべきである。
たった一回そうじゃないと思っただけで、じゃあすぐにやめろとまでは言わないが、それが数回連続で続くようなら、間違いなくやめるべきである。
その問いをかけた時に、「今やるべき!」という結論が出たのなら、そこには、何かしらの情熱を持っているはずだ。少なくとも自分はそう思っている。

情熱というのは、やる気という意味でもあるが、それよりも僕は、それにかける想いや、自分がずっと信じている美徳や、言い表せないほどの熱い感情なんじゃないかと、最近思っている。
そういう情熱を自分は持っているのか?今ははっきりと持っていると答えることができる。

「情熱なんていらなくない? クールにスマートに行動した方がカッコよくない? 物事を冷静に客観的に判断できる人の方が凄くない? 情熱が一体どれだけのお金や名誉や地位をもたらしてくれるっていうの?」
そう思う人もいるかもしれない。金持ちで、偉い役職についていて、常に俯瞰的な立場から物事を言っている人の方が、凄い人物に思うかもしれない。
だけどそうじゃない。

前回、『サルトルの「嘔吐」を読んで考える、自分という存在への、意味の持たせ方』という記事をアップして、そこにも色々と書いたが、自分の人生に価値をもたらしてくれるものっていうのは、意外とそういうものじゃない。そういう、自分が死んだら、後に残らないものじゃない。
そういう、富や名誉や地位を求める欲求よりも、たった一つ比類なき情熱を注ぎ込める人の方が、圧倒的に強い。
圧倒的に強くて、圧倒的に良いものを後世に残せる。そして、圧倒的にカッコいい。
それはもう、誰が何と言おうと、間違いはない。逆に言えば、あらゆる状況において、それだけが唯一ぶれないものだ。

だけど、そういう果てしない情熱を持っている人が、身の回りにどれだけいるか。自分の友人、会社の同僚、先輩、兄弟、そういう人に聞いてみたらどうだろうか。物凄く少ないはずだ。

これを読んでいるあなたは一体どうでしょう。揺るぎない、情熱や哲学や美徳を持っていますか?
持っていないなら、是非、情熱を持っているということが、どれだけ素晴らしいことなのか、この「火花」という文学から感じ取ってほしい。持っている人なら、この「火花」という文学を読んで、それをこの先の人生でずっと信じられるように、自分の中で揺るぎのないものとして確立して言ってほしい。

それでは、前置きは長くなったが、「火花」から僕が感じたことを述べていきたいと思う。

笑いとは何か、人間とは何か、葛藤とは何か

売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。

「火花」という小説のストーリーは、端的に言うと、売れない芸人がどう生きていくか、というそこに焦点を当てた文学だ。

そこに描かれているのは、笑いとは何か、を深く追求する僕であり、
芸人を目指すという人生を選択した僕と神谷の二人であり、
自分の考え方や感じ方と全く違う世間からの評価であり、
圧倒的天才に置いてけぼりにされないよう、なんとか追いつこうとする、僕の葛藤である。

この文学を読み終えた時に、情熱に生きる人生というものは、こういうことなのかと、一つのモデルを深く体験できたような気になる。

ここには紛れもなく、一人の(現実よりも)濃い人生が詰まっている。

なので、このブログでは、最も印象に残ったセリフを三つに絞って、それに対する自分の考えも合わせて綴っていきたいと思う。印象に残った部分は他にもたくさんあるので、最後に全部まとめておきます。時間がある方は、是非そちらも読んでみてください。

不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった

 出来ないのだ。神谷さんが、この漫才を面白くないと言うのなら、もう僕には出来ない。  
 僕は神谷さんとは違うのだ。僕は徹底的な異端にはなりきれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることも出来ない。噓を吐くことは男児としてみっともないからだ。知っている。そんな陳腐な自尊心こそみっともないなどという平凡な言葉は何度も聞いてきた。でも、無理なのだ。最近は独りよがりではなく、お客さんを楽しませることが出来るようになったと思っていた。妥協せずに、騙さずに、自分にも噓を吐かずに、これで神谷さんに褒められたら最高だと一人でにやついていた。昔よりも笑い声を沢山聞けるようになったから、神谷さんの笑い声も聞けるんじゃないかと思っていた。でも、全然駄目だった。日常の不甲斐ない僕はあんなにも神谷さんを笑わすことが出来るのに、舞台に立った僕で神谷さんは笑わない。  
 神谷さんが、何を見て、何を面白いと思っているのか、どうすれば神谷さんが笑ってくれるのか、そんなことばかり考えていた。美しい風景を台なしにすることこそが、笑いだと言うのなら、僕はそうするべきだと思った。それが芸人としての正しい道だと信じていた。  
 僕は本当に自分に噓を吐かなかっただろうか。  
 神谷さんは真正のあほんだらである。日々、意味のわからない阿呆陀羅経を、なぜか人を惹き付ける美声で唱えて、毎日少しのばら銭をいただき、その日暮らしで生きている。無駄なものを背負わない、そんな生き様に心底憧れて、憧れて、憧れ倒して生きてきた。  
 僕は面白い芸人になりたかった。僕が思う面白い芸人とは、どんな状況でも、どんな瞬間でも面白い芸人のことだ。神谷さんは僕と一緒にいる時はいつも面白かったし、一緒に舞台に立った時は、少なくとも、常に面白くあろうとした。神谷さんは、僕の面白いを体現してくれる人だった。神谷さんに憧れ、神谷さんの教えを守り、僕は神谷さんのように若い女性から支持されずとも、男が見て面白いと熱狂するような、そんな芸人になりたかった。言い訳をせず真正面から面白いことを追求する芸人になりたかった。不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった。  
 神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている。それを楽しみながらやっているのだから手に負えない。自分の作り上げたものを、平気な顔して屁でも垂れながら、破壊する。その光景は清々しい。敵わない。
 いつか誰かが言っていた。神谷は逃げているだけじゃないかと。違う。何もわかっていないと思う。神谷さんは、自分が面白いと思うことに背いたことはない。神谷さんは「いないいないばあ」を知らないのだ。神谷さんは、赤児相手でも全力で自分の笑わせ方を行使するのだ。誤解されることも多いだろうけど、決して逃げている訳ではない。

僕たちは、どれだけ自分のやっていることに対して、本気になれているだろう。一切の妥協を許さず、常に自分を超えようと挑み続けられているだろう。

自分に常に本気で向き合えている人たちを見て、どれだけ「あの人は天才だから、元々そういうセンスがあるから」という言葉で片付けてきただろう。

どれだけ、自分の努力に正面から向き合えてきただろう。

どれだけ、純粋さに憧れてきただろう。

純粋だということはただそれだけで美しい。果たして自分はどれだけ純粋でいることができているのだろうか。この文章を読んで、深く考えた。

勿論、現実世界は、物語の中なんかよりも複雑で、純粋に突き進むということは難しいかもしれない。しかし、その言い訳をして、一体何の役に立つというのだろうか。

純粋でありたいという気持ちと、そうはいかない現実の狭間に立った時に、迷胃に迷って、妥協するという選択は、もうここらで終わりにしていいんじゃないか。

全ての選択の場面で、己の純粋さを貫くという選択肢は難しかろうとも、それでもなお、純粋でいようという姿勢は崩さなければ、いつか振り返った時に、「限界までやれたんじゃないか、俺は」って、心の底から思えるんじゃないかと僕は信じています。

純粋を貫く姿勢であり続けようと思うばかりです。

極論、そこに書かれてることで、お前の作るもんって変わるの?

「人の悪口ばっかりの書き込みに対して、反論するのは、そいつ等と同じレヴェルになるから、やらん方がいいって言う奴おるやん。あれ、どうなん?」
 多分、僕はそういう奴だった。
「レヴェルってなに? 土台、俺達は同じ人間やろ? 間違ってる人間がおったら、それ面白くないでって教えたらな。人が嫌がることは、やったらあかんって保育所で習ったやん。俺な自慢じゃないけど、保育所で習ったことだけは、しっかり出来てると思うねん。全部じゃないかもしれへんけどな。ありがとう。ごめんなさい。いただきます。ごちそうさまでした。言えるもん。俺な、小学校で習ったこと、ほとんど出来てないけど、そういう俺を馬鹿にするのは大概が保育所で習ったことも出来てないダサい奴等やねん」
 そうかもしれない。
「ネットでな、他人のこと人間の屑みたいに書く奴いっぱいおるやん。作品とか発言に対する正当な批評やったら、しゃあないやん。それでも食らったらしんどいけどな。その矛先が自分に向けられたら痛いよな。まだ殴られた方がましやん。でも、おかしなことに、その痛みには耐えなあかんねんて。ちゃんと痛いのにな。自殺する人もいてるのにな」
「はい、僕も狂ってると思います」
「だけどな、それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。俺の人格も人間性も否定して侵害したらいいと思うねん。きついけど、耐えるわ。俺が一番傷つくことを考え抜いて書き込んだらええねん。めっちゃ腹立つけどな。でも、ちゃんと腹立ったらなあかんと思うねん。受け流すんじゃなくて、気持ちわかるとか子供騙しの噓吐いて、せこい共感促して、仲間の仮面被って許されようとするんじゃなくて、誹謗中傷は誹謗中傷として正面から受けたらなあかんと思うねん。めっちゃ疲れるけどな。反論慣れしてる奴も多いし、疲れるけどな。人を傷つける行為ってな、一瞬は溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。可哀想やと思わへん? あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐに抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって」
そんな人達と向き合っても自分には何の得もない。
「お前は、あんな意見気になるか?」
「僕はアンケートに書かれてる意見とか割と気にします」
「劇場に来てるお客さんの意見はな。ネットとかは?」
「なります」
面白いことをやりたくて、この世界に入ったのだから、面白くないと言われることは自分の存在意義に関わることだった。
「周りの評価気にしてても疲れるだけやん。極論、そこに書かれてることで、お前の作るもんって変わるの?」
「一切、変わりません」

この文章には二つ重要なことが書かれている。

「自分以外の人間をきちんと見ているか」と、「周りの評価で自分は変わるのか」ということだ。

まず一つ目だが、サルトルの「嘔吐」を読んだ時に、これに似た興味深い人物が描かれていた。それはヒューマニストという人たちで、彼らは、人々を見て、いろんな批評を下す。

しかし、一体誰が、一人の人間を見て、彼がこれであるとか、あれであるとか、汲み尽くすことができるのだろうか。そんなことは勿論不可能だ。

要するに、そういったヒューマニストたちは、一人の人間を見ているように考えているが、実際は、彼らに背を向けている。ヒューマニストが見ているものは、例えば、若い人だとか、青春を謳歌している人だとか、批判的な人だとか、そういうレッテルを貼った象徴であって、実際のその人ではない。

この「火花」の文章もそれをいっているわけで、土台とかってなに? そういう言い訳して、きちんとその人を見てないだけでしょ? そんなんじゃダメだろ、ちゃんと一人一人向き合えよってことだ。

そして、二つ目の評価の部分は、それに繋がるんだが、きちんと一人の人間を見て、意見を受け止めたとして、それで自分の作るものとか考えとかって変わるの? 勿論変わらないってことだ。

変わらないなら、聞く意味ないんじゃないかって、思うかもしれないんだが、聞かないんだとしたら、その人を勝手に評価するのってどうなの? ってことだ。

他人の意見に賛成したり、反対したりするのは、勝手だが、きちんとその人の考えを受け止めてないのに、その判断を下すのは、僕は違うと思う。

違うと思ったら、反対すればいいだけのことだから、表層だけ舐めて勝手に判断下す人物にはならないようにしよう、といったことを改めて考えさせられた文章でした。

一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう

 僕は小さな頃から漫才師になりたかった。僕が中学時代に相方と出会わなかったとしたら、僕は漫才師になれただろうか。漫才だけで食べていける環境を作れなかったことを、誰かのせいにするつもりはない。ましてや、時代のせいにするつもりなど更々ない。世間からすれば、僕達は二流芸人にすらなれなかったかもしれない。だが、もしも「俺の方が面白い」とのたまう人がいるのなら、一度で良いから舞台に上がってみてほしいと思った。「やってみろ」なんて偉そうな気持など微塵もない。世界の景色が一変することを体感してほしいのだ。自分が考えたことで誰も笑わない恐怖を、自分で考えたことで誰かが笑う喜びを経験してほしいのだ。
 必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう? 一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う

これが、僕が最後に言いたかった気持ちそのものだ。

僕自身、突飛な人生を歩んできたから、周りの大人や、友人や、様々な人から、進む道に対して、何やかんやと言われてはきた。しかし、どの意見に対しても、納得いかなかったから、自分の進む道を突き進んでみた。そうすると、僕の場合は、良い方向に落ち着くことができた。

しかし、この物語の主人公はそうではない、結果は別に芳しくはなかった。だけど、僕自身と、この主人公とでは、違いはさほどないはずだ。

たまたま上手くいったり、上手くいかなかったりしただけで、僕が、この主人公みたいに、芳しくない結果に終わる可能性の方が高かったはずだ。

今の自分の結果を見て、周りの人たちは、「良い判断を下した!」と言ってくるが、結果が違えば、「何を無駄なことに時間をかけていたんだ!」と叱ってくるに違いない。

結局周りは、「結果」しか見ていない。結果以外の「過程」の評価はしてくれない。

結果しか見てくれないが、だからと言って、僕たちは、やる前から結果が分かるはずはない。

上手くいかない結果が待っている可能性が高い事柄に対して、僕たちはどれほど挑戦できていますか? 僕は、嬉しくもこの問いには、心の底から、「僕は思う存分に挑戦してきました!」と答えることができる。

だけど、安心はできない。この先どっちに転ぶ可能性もあるから。

これを読んでいるあなたはどうだろう? きちんと挑戦できていますか?

僕自身が一つ思うことは、結果に対して、周りの評価は往々に変化するが、自分自身の中での評価は、変わらないんじゃないかってことだ。

結果が出なくても、挑戦できたという事実に、自分は満足することができるはずだし、その中では、自分の人生において、果てし無く重要な何かを獲得できるはずだからだ。

そして、何より、一度でも結果が出た時は、人生至上最高に喜べる。嬉しすぎて涙さえ出てくる。

だから、そういう体験を是非、これを読んでいる皆さんにしてほしいと思いました。

是非とも、情熱を持って、色々なことに挑戦して、生きて見てください。

僕の感想は、この辺で終わりにさせていただきたいと思います。読んでいただきありがとうございます。

名言集

最後に、僕が素敵だなと感じた名言や文章を載せておきますので、興味がある方は、是非とも読んで頂ければと思います。

 神谷さんは、「いないいないばあ」を理解していないのかもしれない。どんなに押しつけがましい発明家や芸術家も、自分の作品の受け手が赤ん坊であった時、それでも作品を一切変えない人間はどれくらいいるのだろう。過去の天才達も、神谷さんと同じように、「いないいないばあ」ではなく、自分の全力の作品で子供を楽しませようとしただろうか。僕は自分の考えたことをいかに人に伝えるかを試行錯誤していた。しかし、神谷さんは誰が相手であってもやり方を変えないのかもしれない。それは、あまりにも相手を信用し過ぎているのではないか。だが、一切ぶれずに自分のスタイルを全うする神谷さんを見ていると、随分と自分が軽い人間のように思えてくることがあった

「大人に怒られなあかん、って確かにどこかで聞いたことあんねん。でもな、聞いたことあるから、自分は知ってるからという理由だけで、その考え方を平凡なものとして否定するのってどうなんやろな? これは、あくまでも否定されるのが嫌ということではなくて、自分がそういう物差しで生きていっていいのかどうかという話やねんけど

「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか

「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん? 共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけど

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くからは見えへんし実も生らへん。だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる

「でも僕、物事を批評することからは逃れられへんと思います」
 神谷さんは右手で珈琲カップを持ったまま両目を見開き動かなくなった。薄暗い店内には相変わらず静かに音楽が流れていて、同じフレーズを何度も繰り返すこの曲には聴き覚えがあった。題名はなんだっただろうか。
「せやな。だから、唯一の方法は阿呆になってな、感覚に正直に面白いかどうかだけで判断したらいいねん。他の奴の意見に左右されずに。もし、俺が人の作ったものの悪口ばっかり言い出したら、俺を殺してくれ。俺はずっと漫才師でありたいねん。

「笑われたらあかん、笑わさなあかん。って凄く格好良い言葉やけど、あれ楽屋から洩れたらあかん言葉やったな」と神谷さんが言った。
 下北沢の駅で人が沢山降りたが、降車したのと同じくらいの人間がまた乗ってきた。 「あの言葉のせいで、笑われるふりが出来にくくなったやろ? あの人は阿呆なふりしてはるけど、ほんまは賢いんや。なんて、本来は、お客さんが知らんでいいことやん。ほんで、新しい審査の基準が生まれてもうたやろ。なんも考えずに、この人達阿呆やなって笑ってくれてたらよかったのにな。お客さんが、笑かされてる。って自分で気づいてもうてんのって、もったいないよな」
「だからこそ、新しい基準を越えて生まれるものもあるんじゃないですか?」 「それも一部あるんやろうけど。名画の上から、色んな絵具足し過ぎて、もう元に戻れんようになって、途方に暮れてる状態に思えるねんな。その点、お前は自分の面白い部分に自分で気づいてないやろ? それがいいねん

 僕のような退屈で面倒な男と遊ぶことによって、周囲から色眼鏡で見られ、偽善者と呼ばれる可能性があるということを、この時まで現実的に考えたことがなかった。僕は神谷さんを、どこかで人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることの出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。両者には絶対的な差があった。神谷さんは他の人のように僕に対して身構えたりせず、徹底的に馬鹿にすることもあれば、率直に褒めてくれることもあった。他の尺度に左右されずに僕と向き合ってくれた。
 そんな神谷さんに寄りかかっていたため根本的なことを忘れかけていた。神谷さんの突飛な言動や才能を恐れながらも、変態的であることが正義であるかのように思い違いをしていた。いや、芸人にとって変態的であることが一つの利点であることは真実だけれど、僕はただ不器用なだけで、その不器用さえも売り物に出来ない程の単なる不器用に過ぎなかった。それを神谷さんの変態性と混同して安心していたのである。

 僕には、神谷さんの考えそうなことはわかっても、神谷さんの考えることはわからなかった。自分の才能を越えるものは、そう簡単に想像出来るものではない。神谷さんの発言を聞いた後で、手のうちを知っていると錯覚を起こしているだけに過ぎない。自分の肉が抉られた傷跡を見て、誰の太刀筋か判別出来ることを得意気に誇っても意味はない。僕は誰かに対して、それと同じ傷跡をつけることは不可能なのだ。なんと間抜けなことだろうか

 それに僕と神谷さんでは表現の幅に大きな差があった。神谷さんは面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていた。一方、僕は自分の発言が誤解を招き誰かを傷つけてしまうことを恐れていた。  
 神谷さんに、そんな制限はない。周囲を憚らずに下ネタを言ってやったというアウトローとしての行為を面白いと思っているのではない。あくまでも、面白いことを選択する途中に猥褻な現象があっただけなのだから、それを排除する必要を微塵も感じていないのだ。そんな神谷さんとは対照的に、僕は主題が他にあり、下ネタがただの一要素に過ぎない局面でも、それを排除する傾向にあった。つまり、自分が描きたい世界があったとしても露骨な性表現が途中にある場合、そこに辿り着くことを断念してきた。神谷さんは、そんな僕の傾向を見抜き、不真面目だと言った。不良だとも言った。面白いかどうか以外の尺度に捉われるなというのは神谷さんの一貫した考え方であった。面白い下ネタを避ける時、僕は面白い人間でいようとする意識よりも、せこくない人間であろうとする意識の方が勝っているのだ。神谷さんは、その部分を不良だと言った。

 読みながら、僕は今夜のライブを忘れようと思っていたことに今更ながら気づかされた。あほんだらは四位で、スパークスは六位だった。お客さん投票なので、人気がある芸人や、お客さんを沢山呼んだ芸人が有利だとは思うが、神谷さんはいつも、肉親以外の投票は全て有効だと言っていた。人気のコンビもファン達と元々は他人だったのだ。それをファンにさせたのは本人なのだから、他人がとやかく言うことではない。その日のネタの出来が悪いからと言って、他のコンビに投票して、万が一好きなコンビが淘汰されてしまっては、応援しているコンビがいかに将来性があったとしても永遠に見ることが出来なくなってしまう。恋愛において、経済力がない男と付き合っている女性も、いつまでも男を養っていこうとは思っていないはずだ。いつか、真っ当に働き稼いでくれると将来性を買っているのだ。つまり、そう思わせるのも実力であるというのが神谷さんの考え方だった。そう言われても、僕はその日の完成度で評価されるべきだと思う。それに、神谷さんは勝ちに執着している人間のような発言をしていながら、本人は勝ち方にも美学があり、それに拘泥しているように見えた

 「あほんだらさん、面白かったです。 彼女と瓜二つの排水溝」とメールを送って眠ることにした。先輩のネタを面白かったなどと評価出来る分際ではないのだけれど本心だった。だが、自分達はどうだったか。あほんだらにはスタイルがある。自分達にはあるだろうか。考え出すと、不安の波が押し寄せてくる

 神谷さんは僕の銀髪と様子の変わった服装について、色々と聞いてきた。僕は銀髪と合う服を選んでいたら自然とこうなったのだと説明した。何を着るかということに必然性を感じ、それを選ぶことが重要なのだと神谷さんは僕の服装に一定の理解を示した。神谷さんはお洒落についてはわからないが、お洒落であることと、個性的であることが同義のように扱われている点について異議を唱えた。一見すると独特に見えても、それがどこかで流行っているのなら、それがいかに少数派で奇抜であったとしても、それは個性とは言えないのだと言った。それを最初に始めた者だけの個性であり、それ以外は模倣に過ぎないのだと言った。しかし、例外もあって、たとえば一年を通してピエロの格好を全うするという人がいた場合、これは個性と言っていいとも言った。ピエロは誰かが生み出したものだが、それを普段着として日常的に着てしまうことは、最早オリジナルの発想であると断言した。 「でもな、もしそのピエロが夏場に本当は暑いからこんな格好はしたくない。と思っていた場合、これは自分自身の模倣になってしまうと思うねん。自分とはこうあるべきやと思って、その規範に基づいて生きてる奴って、結局は自分のモノマネやってもうてんねやろ? だから俺はキャラっていうのに抵抗があんねん

「徳永君、大阪選抜だったんでしょ? なんでサッカー辞めちゃったの?」
 この人は、いつも僕達に笑顔で接してくれるけれど、僕達のことを微塵も面白いなんて思っていないのだろう。この人にとって、僕などはここに存在していなくても別に構わないのだ。どこかでサッカー選手にでもなっていたら、こいつは幸せだっただろうと軽薄に想像する程度の人間でしかないのだ。そして、それはこの人に限ったことではない。  
 十代の頃、漫才師になれない自分の将来を案じた底なしの恐怖は一体何だったのだろう

 神谷さんの借金はどんどん膨らんでいった。僕は高円寺のコンビニで深夜バイトを続けていたので、そんな神谷さんを見て、我ながら小粒だなと自分が嫌になることもあった。東京での生活に必要な最低限の収入を得るために働くことは当然だったが、それに僅かな芸人としての収入を足しても同世代の平均的な年収には遠く及ばなかった。働いても惨めな気分が解消されないのであれば、いっそのこと神谷さんのように四六時中芸人であることの方が尊いと思うこともあった。だが、それには相当な勇気と覚悟が必要だった

神谷さんと一緒にいると、日常で使うことのない、どこかの限られた神経は激しく疲弊したが、世の中の煩わしさを束の間忘れさせてくれることも多かった。神谷さんの前では、僕は普段より格段にお喋りになった。聞きたいことが沢山あった。この人が全ての答えを持っていると思い込んでいる節が僕にはあったのだろう

 こういう時に僕は打ちのめされた。発想の善し悪しが、日常から遠くへ飛ばした飛距離でもなく、受け手側が理解出来る場所に落とす技術でもなく、理屈抜きで純粋に面白い方を択べとする感覚的なものによるならば、僕は神谷さんに、永遠に追いつけない。

 周囲と会話をしていると、神谷さんという人間がいかに特殊であるかに気づかされることが多かった。神谷さんは理想が高く、己に課しているものも大きかった。神谷さんと濃密な時間を過ごすことによって、僕は芸人の世界を知ろうとした。だが、神谷さん自身も僕をキャンバスにして自分の理論を塗り続けていったのかもしれない。神谷さんの才能と魅力を疑うことはない。ただ、あまりにも強力な思念に息苦しさを感じることもあった。僕は神谷さん以外の誰かと話すまで、自分が窒息しそうになっていることさえも気づかなかった。大林さんは、神谷さんが僕の前だと格好をつけると言っていた。先天的に神谷さんが持っていた要素も勿論あったのだろうけど、生き難くなるほど幻想が巨大化したことについては、僕も共犯関係にあるのかもしれなかった。人の評価など気にしないという神谷さんのスタンスや発言の数々は、負けても負けではないと頑なに信じているようにも見え、周囲から恐れられた。恐怖の対象は排除しなければならないから、それを世間は嘲笑の的にする。市場から逸脱した愚かさを笑うのだ

 しかし、イベントのエンディングで審査委員長は、「一部、音響を使った漫才ではないコンビもいましたが」とあほんだらを否定する発言をした。他の芸人達も面白さと笑いの量は認めながらも、あほんだらから「面白い」という評価を意識的に剝奪して、笑える変なコンビというレッテルを張って安心しているような印象を受けた。一本目の正統な漫才は忘れたふりをして。 「売れる気ないでしょ?」と笑いながら他の芸人に言われる神谷さんは、終始納得のいかない顔をしていた。これを自分達のライブでコントとして演じていれば何の問題もなかっただろう。だが、神谷さんにとっては漫才を観にきた客の前で平然と事件を起こすことこそが面白いことだったのかもしれない。僕としては、この次が観たかった。正統な漫才を披露した後、それを二本目でどう破壊するのか。漫才かどうかは置いといて。他にどんな方法があるのか興味があった。しかし、誰かが神谷さんにその場所を提供することはなかった

 神谷さんは、信念を持っていた。周囲に媚びることが出来ない性質は敵も作りやすい。それでも神谷さんは戦う姿勢を崩さなかった。舞台に誰がいても、観客が一人も求めていない状況でも神谷さんは構わずに、自分の話をした。一部の芸人には賞賛されたし、一部の芸人からは煙たがられた。僕は神谷さんになりたかったのかもしれない。だが、僕の資質では到底神谷さんにはなれなかった。
 神谷さんにも後輩は増えた。お互いの所属事務所の芸人と遊ぶことが増えた。寂しくもあったが、それは必然でもあった。以前から僕を慕ってくれていて、最近懇意にしている後輩は、神谷さんの資質に対して懐疑的ですらあった。そんな時、僕は迷うことなく後輩の才能を疑った

 いつの間にか、僕達は随分と遠くまでやってきた。
 まったく先が見えない状況のなか、得体の知れない後ろめたさや恐怖に苦しみながらも、なんとか必死でやってきた。深夜バイトは、突然入ったオールナイトライブに出演するため、急に休んでクビになった。次のバイト先では年下に変なあだ名も付けられた。でも最近、ようやく漫才だけで食べていけるようになった。もう少ししたら、実家に仕送りが出来るようになるかもしれない。
 一度家族を劇場に招待するのもいいかもしれない。その後、なにか美味しいものでも食べにいこう

 それだけのことなのである。神谷さんにとっては、笑いにおける独自の発想や表現方法だけが肝心なのだ。髪型や服装の個性になど全く関心がないのである。定食屋で友人が美味しそうな飯を食っていたから、同じ物を注文したことと何ら変わりないことなのだ。友人と同じ定食を食べながら、誰も思いつかないようなネタを考えるのが神谷さんの生き方なのだ。僕達は世間から逃れられないから、服を着なければならない。何を着るかということが絵画の額縁を選ぶだけのことであるなら、絵描きの神谷さんの知ったことではない。だが、僕達は自分で描いた絵を自分で展示して誰かに買って貰わなければいけないのだ。額縁を何にするかで絵の印象は大きく変わるだろう。商業的なことを一切放棄するという行為は自分の作品の本来の意味を変えることにもなりかねない。それは作品を守らないことにも等しいのだ

 しかし、僕は個人的な関係がなかったとしても、同じ時代に同じ劇場で共に戦った全ての芸人達を誇らしく思う。汚れたコンバースで楽屋に入ると、同じように貧相な格好をした連中が沢山いた。彼等は、束の間、自分が世間から置き去りにされ、所詮芸人と馬鹿にされていることを忘れさせてくれた。それは駄目な竜宮城みたいなものだったかもしれないけれど。一言も話したことなどなくとも、もし彼らがいなかったら、こんな狂った生活を十年も続けることは出来なかっただろう。
 そして、薄々気づいてはいたが、僕達の仕事も徐々に減っていた。かつて僕を恐れさせ、成長させてくれた後輩達も新たな人生を歩み出していた。僕達の永遠とも思えるほどの救い様のない日々は決して、ただの馬鹿騒ぎなんかではなかったと断言できる。僕達はきちんと恐怖を感じていた。親が年を重ねることを、恋人が年を重ねることを、全てが間に合わなくなることを、心底恐れていた。自らの意思で夢を終わらせることを、本気で恐れていた。全員が他人のように感じる夜が何度もあった。月末に僅かなお金を持ち寄って酒を吞み、不安を和らげ、純粋な気持ちで一切の苦難を忘却の彼方に押しやるネタをそれぞれが考え練り実行した。これで世界が変わるんじゃないかと、自分を鼓舞し無理やり興奮していた。いつか自分の本当の出番が来ると誰もが信じてきた

世界の常識を覆すような漫才をやるために、この道に入りました。僕達が覆せたのは、努力は必ず報われる、という素敵な言葉だけです

神谷さんから僕が学んだことは、「自分らしく生きる」という、居酒屋の便所に貼ってあるような単純な言葉の、血の通った激情の実践編だった

「俺な、芸人には引退なんてないと思うねん。徳永は、面白いことを十年間考え続けたわけやん。ほんで、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ」
 神谷さんの表情は柔らかかったが語調は真剣だった。
「たまに、誰も笑わん日もありましたけどね」
「たまにな。でも、ずっと笑わせてきたわけや。それは、とてつもない特殊能力を身につけたということやで。ボクサーのパンチと一緒やな。無名でもあいつら簡単に人を殺せるやろ。芸人も一緒や。ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん。だから、事務所やめて、他の仕事で飯食うようになっても、笑いで、ど突きまくったれ。お前みたいなパンチ持ってる奴どっこにもいてへんねんから」
 急にボクシングで例え出したことを指摘したら、神谷さんは怒るだろうか。「笑いで、ど突きまくったれ」とは、なんと格好悪くて、なんと格好良いんだろう。
「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし、世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ? ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん」
 僕にとっては相方も、神谷さんも、家族も、後輩もそうだった。真樹さんだってそうだ。かつて自分と関わった全ての人達が僕を漫才師にしてくれたのだと思う。
「絶対に全員必要やってん」
 神谷さんは小指でグラスの氷を搔き混ぜていた。 「だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってんねん。だから、何をやってても芸人に引退はないねん

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