(92点)「夏の庭」を情熱的に感想・評価・レビュー。僕らは生きることに向き合っているか。

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), Literature(文学)

どうもこんにちは、SenKuSya代表のKotaです。

今日は「夏の庭」という中高生向けの小説を紹介していきたいと思います。


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夏の庭について

町外れに暮らすひとりの老人をぼくらは「観察」し始めた。生ける屍のような老人が死ぬ瞬間をこの目で見るために。
夏休みを迎え、ぼくらの好奇心は日ごと高まるけれど、不思議と老人は元気になっていくようだ――。
いつしか少年たちの「観察」は、老人との深い交流へと姿を変え始めていたのだが……。
喪われゆくものと、決して失われぬものとに触れた少年たちを描く清新な物語。


この作品は、僕の高校入学時の宿題の課題図書として、紹介されていました。当時の僕は、小説を読むのが嫌いだったので、ネットから適当に拾った感想を寄せ集めて、ろくに読みもせず提出した記憶があります。

そんな中、実家に帰った時に、クローゼットの中に眠っているのを発見して、ついこの間初めて読んだところです。

この本は、僕がブログで度々紹介している様な文学作品とは、少し違います。国語の題材に選ばれるような純粋な”小説”という感じです。

教訓めいたものは少ないんだけど、心にほっこりと暖かさが残るような素晴らしい小説です。

この小説のテーマは、身近な人の死です。

その死というものも幼い少年たちが体験し、その中で学び考えることを、読者に教えてくれます。

この小説を読んで、僕が特に注目した部分を、自分の考えを交えながら紹介していきたいと思います。


生きていることは、息をしていることだけか

ずっと昔、僕がまだ小さい頃、死ぬ、というのは息をしなくなるということだと教えてくれたおじさんがいた。そして長い間、僕はそうだと思っていた。でも、それは違う。だって生きているのは、息をしているってことだけじゃない。それは絶対に、違うはずだ。

生きていることは、息をしていることだけを指しているのではない。それは、僕たち誰もが分かっていることだ。

しかし、では何が生きているということなのか。それを考えると結構難しい。

生物学的に生きていることについて考えると、簡單かもしれない。だけど、僕たちが追求しようとしていることは、そんなことではないはずだ。

スピリチュアル的に考えると、魂の有無なども関係してくるだろう。しかし、見えないものについて言及すると、更にややこしくなりそうなので、ここでは割愛しておこう。

哲学では、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉がある。僕が以前読んだ、デカルトの「方法序説」という本に、書いてあった言葉だ。

自分はなぜここにあるのか、と考える事自体が、自分が存在する証明になるというものである。

一度、自分を含めた世界の全てが偽物ではないかと疑ってみる。
もしかしたら、自分が見ている景色は、何者かによって作られた幻かもしれない。
また、自分が見ているものと、他人が見ているものは、全く同じものなのか。それを証明することもできそうにない。
そう考えると、この世の中で、絶対に存在するというものは存在しないのかもしれない。

しかし、そのように考えている思いがあることだけは確かだ。
ということは、そのことを考えている自分がいることも、真実だ。

つまり少なくとも、今このことを考えている自分自身は、確実に存在するということになる。

よって、「我思う、ゆえに我あり」ということになる。

これを逆に考えると、生きているということは、考えることが出来るということになる。
哲学的に考えるとこうなる。

しかし、生きていることには、ただ事象としての生命だけではなく、何か目的があるはずだ、とも考えられる。
目的を持って生きていなければ、それは生きていると言えるのか。
生きている意味についても考えないといけない。

これについては、サルトルの「嘔吐」という本を読んだ時に、僕は確立させた。
(98点)サルトル「嘔吐」を情熱的に感想・評価・レビューの時に書いたが、僕が立てた人生の意味は「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残す」ということだ。
死んでなお、多くの人の心に、深く存在する、そんな風になりたいと思っている。

少々長くなったが、冒頭の文章から、これだけの考えを広げることが出来る。

生きていることは、息をしているってことだけではないという事を再確認させてくれ、最終的には、自分が生きる意味とは何だろうか? ということまで発展させてくれるこの文章が、僕は好きです。


死を本当に理解しているか

何故、さっきまで生きていた者が次の瞬間に死んでしまうのか。死ぬ前の瞬間と死んだ後の瞬間では、息をしていないとか、心臓が動いていないという外に一体どこが違うというのか。
何故、死ぬのが明日とか明後日ではいけなかったのか。
人間は大怪我をしても生きているほどしぶといところもあるのに、何故、眠っているかのように見えるその身体からはもう魂が抜けてしまっているのか。
悲しい以上に納得出来ないとても素朴な疑問がどんどん湧き上がってくるのだ。
その時初めて、私たちは頭では「死」と言うものを理解してたつもりでも、実は全然理解なんかしていなかったことに気が付くのである。

僕たちは、死について殆ど理解していない。
そして、死というものは、必然的に訪れるものであるはずなのに、現実とかけ離れた何かであるように、僕たちはその存在についてほとんど意識していない。

それで良いのだろうか、と考える時に、いつも思い出す言葉がある。

「明日死ぬとしたら、今日自分はどう生きるか。それを毎日考える。」
スティーブ・ジョブズの言葉だ。

明日も、来年も、十年後も、同じような今がある様に考えがちだが、そんなことはない。

むしろ、同じような今など、今この瞬間以外に存在しない。
自分が生きている限り、自分を取り巻く環境も、自分の考えも変わり続ける。

そんな中、自分は本当に、今の自分が必要としている何かを追い求めているか。

死というものについて熟慮し考察しても、それから逃れることは出来ない。だが、死を意識の外へ追いやってしまのは、それはそれで違う。

だから、今生きて何かに向かっている、という実感を忘れずに、決して、自分が立てた生きる意味を、何も守らずに生きているような状態にはなりたくないと思う。

目の前の一つ一つに真剣になる、という当たり前のことを、この文章を見ると改めて思い返します。

最後に、僕が言っていることと似ていて、僕がこの小説の中で最も気に入った部分を載せて終わりにしたいと思います。

死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつか僕は出来るのだろうか。たとえやり遂げることが出来なくても、そんな何かを見つけたいと僕は思った。そうでなくちゃ、なんのために生きてるんだ。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
他に気に入った文章を下に載せておきますので、時間があれば是非御覧ください。
それでは、また明日。


本文中に出てきた作品




お気に入りの文章

ちっくしょう! じじい、よく聞け! オレたちはお前を見張ってたんだよ! お前が死にそうだって言うから、見張ってたんだ! お前がどんな死に方するか、オレは絶対見てやるからな!

あの時、なぜどうしても見たいと言えなかったんだろう。それは箱の中に閉じ込められたまま、葬られてしまった。僕はそうやって、色々なことを見過ごしているような、そんな不安に今でも襲われるのだ。

多分、この世界には隠れているもの、見えないものがいっぱいあるんだろう。虹のように、ほんのちょっとしたことで姿を現してくれるものもあれば、長くてつらい道のりの果に、やっと出会えるものもあるに違いない。僕が見つけるのを待っている何かが、今もどこかにひっそりと隠れているのだろうか。

どこかにみんながもっと上手くいく仕組みがあったっていいはずで、オレはそういう仕組を見つけたいんだ。地球には待機があって、鳥には翼があって、風が吹いて、鳥が空を飛んで、そういうでかい仕組みを人間は見つけてきたんだろ。だから飛行機が飛ぶんだろ。
音より早く飛べる飛行機があるのに、どうしてウチにはお父さんがいないんだよ。どうしてお母さんは日曜日のデパートで、あんなに怯えたような顔をするんだよ。どうしてオレは、いつか後悔させてやりなさい、なんて言われなくちゃならないんだよ。

だけど、僕は書いておきたいんだ。忘れたくないことを書き留めて、他の人にも分けてあげられたらいいと思う。
いろんなことを差、忘れちゃいたくないんだ。
今日のことだって書くと思うよ、きっと。


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