ルソーの「『嫌なことはしない自由』こそが自由」だという意見に真剣に向き合ってみる

投稿日: カテゴリー: Blog(ブログ), MembersOnly(会員限定), Philosophy(哲学), Radio(ラジオ), Thinking(考え)

どうもこんにちは、SenKuSya代表のKotaです。

今日もまた、自由について書いていきたいと思います。


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「孤独な散歩者の夢想」より

というのも、僕が最近読んでる、ルソーの「孤独な散歩者の夢想」にこんな記述があったからです。

以上の考察から得た結論はというと、私は結局ただの一度も市民社会にふさわしい人間ではなかったということだ。

社会とは、拘束、強制、義務がすべてであり、私のように独立独歩の性向をもった者は、たとえ世間と足並みを揃えるためとはいえ、隷属的な状態に甘んじることができないのだ。

自由に行動できるぶんには、私は善良であり、善行しかなさない。だが、必要から、または世間との付き合いから、何らかの束縛を感じると、私は反抗的になる。いや、むしろ意地になると言ったほうがいい。こうなると私はもはや無能である。

意思に反することを強制されたとたん、もう何があろうと動かなくなる。そうなると、もはや自分のしたいことさえできなくなる。それは私が弱いからである。私はいっさいの行動をさしひかえる。というのも、私の弱さは、行動できない弱さであり、私の力はすべて負の方向に働いてしまう。

私の罪は、いつも「善をなさなかったこと」にある。それに比べ、「罪を犯すこと」は実に稀だ。人間の自由はやりたいことをやることにあるのではない、と私は常々考えてきた。「嫌なことはしない自由」こそが自由である。

それこそ私が求めてきた自由であり、しばしば守り通してきた自由である。

自由について僕はよく考えることが有ります。以前人間不平等起源論を読んで、「自由」について改めて考えてみた。という記事でも、自由についての自分の考えを述べました。この「人間不平等起源論」も、ルソーの本ですね。

この時は、「自分のやりたいことが、何でも出来るような状態」こそが自分にとっての自由だ、という結論で締めています。だけど、今回また違う自由の考えが入ってきたぞと。これは徹底的に考えてみる必要があるなということで、この記事を書いています。


嫌なことはしたくない

ルソーは、「嫌なことを矯正されると、それをしないことは勿論、自分のしたいこともできなくなる」と言っています。

自分はどうか。

そこまで思い切ったことは出来ません。

仕事に例えると、働いている中で嫌なことがあれば、すぐに辞めてしまうということです。多くの人はある程度は我慢すると思います。自分が嫌だろうと、お金には代えられませんから。

しかし、仕事に嫌な側面が一つもないということは有り得るのか。自分が作った会社で、自分が圧倒的な権力を持っている状態なら、ありえるかもしれない。しかし殆どあり得ない。ということは、働くということは嫌なことをする可能性が高いということです。

よく考えれば、「嫌なことを矯正されると、それをしないことは勿論、自分のしたいこともできなくなる」というのは、当たり前な気もしてきました。嫌なことをせず、自分のやりたいことだけをするなんてことは。そもそも出来ないはずです。

旅行をしたいから、お金を貯めるために働くという場合に、働きたくないから、旅行も行かないという選択をするということです。

僕だったら、目的のための苦労は、全然かまわないと思っています。多くの人は、目的のためなら、多少の苦労は許容すると思っているのですが、実際はどうなんでしょうか。

嫌なことを避けるために、やりたいことも避けるのなら、その場合は、一体何をして生きていけば良いんでしょう。


言いなりになるのは嫌だ

では次に、「社会とは、拘束、強制、義務がすべてであり、私のように独立独歩の性向をもった者は、たとえ世間と足並みを揃えるためとはいえ、隷属的な状態に甘んじることができないのだ。」という部分に関して。

確かに、誰かの言うことを聞くのが我慢ならないという人物は、社会に適応できない可能性のほうが高い。社会には必ずやらなければならないことが生じるからだ。社会という集団に属して、かつ、自分の嫌なことを放棄するという方法は、甘い蜜だけを吸うことになる。

そんなことは許されないのだが、仮に許されるのだとしたら、「嫌なことをやらないことが自由だ」という考えが正しくも思えてくる。

では、そこから何をするかという部分について考えてみる。

仮に、実家が超お金持ちだとしよう。一切働かなくても生きていける。好きなものは何でも買える。働かなくても誰からも咎められることがない。最高に自由な状態だ。強制されることは何一つ無い。

自分だったらそんな場面で何をするのか。

よくよく考えたけど、やっぱり働くと思う。
いや、お金を生み出すことをするって言った方が近いかもしれない。

それはなぜか。お金なら充分あるのに何故お金を生み出そうとするのか。

思うに、人の真剣な部分ってのは、お金が絡む部分にこそあると思っているからだ。趣味よりも仕事のほうが真剣になるのも、それにお金が発生しているからだ。飲み屋での会話は適当でも、会議室での会話は真剣になる。それもお金が絡んでるから。つまり、人間はお金のやり取りが発生することで、初めて真剣になれると、僕が思っているからだ。

宿泊サービスでは面白い例がある。民宿のような形で宿を提供するサービスで、Airbnbと、Couchsurfingというものがある。両者の違いは単純。有料(Airbnb)か無料(Couchsurfing)かだ。普通に考えれば、無料で済むなら無料の方が良い。だが実際は、日本人のCouchsurfingの利用はAirbnbと比べると少ないらしい。それが指していることはつまり、有料のほうが安心できるということだ。

そう、お金が絡んでいないことは、大学で友達と一緒にやってるサークル活動とほぼ同じである。自分が本気でも、相手は本気じゃない可能性は高い。

その本気じゃない世界で、自分は楽しめるのかと考えてみた。いや、絶対楽しめない。本気になるからこそ、些細な事でも楽しめるんだと思っている。

嫌なこと、辛いことがないと、感動も達成感も怒りも、生まれないんじゃないか。

嫌なこと、辛いことは、乗り越えるためにある。

嫌なことをずっと続けるのは、それこそ不自由な生きだが、嫌なことを一切しない生き方は、それ以外の重要な感情や経験を失う気がする。

そういうわけで、この「嫌なことをしない自由こそが自由だ」という考えは、僕にはあまり合いませんでした。

結論としては、僕にとっての自由は、「自分のやりたいことが、何でも出来るような状態」であり、それは、嫌なこと辛いことを経験して、全て乗り越えた先に掴み取れるものなんじゃないかと思っています。


今日はこのへんで終わりにしたいと思います。

それでは、また明日。


本文中に出て来た本



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