サルトル「嘔吐」を情熱的に感想・レビュー。自分自身の人生へ意味を持たせる為に、大事なこととは。

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SenKuSya代表の原田です。

今日は、最近読んで感銘を受けた、サルトルの「嘔吐」というフランス文学について、思ったことを記していきたいと思う。

ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ

後ほど追加します。

存在の意味について

例えば、道端に石ころが転がっていたとする。多分誰も気にも留めないだろう。

公園に行くと、大きな木が生えていた。大きな木が生えているなあということぐらいしか、思わない。

自分という人間がいる。よく分からないで生きてるけど、「生きている」ってことは、たしかに感じ取れる。

石ころや、大木と比べると、「存在」という観点では、私という人間の「存在」は価値が違うはずだ。

キリスト教の考えによると、人間というものは、神様が、自分と似せて造ったらしい。

だから、石ころや、大木と違って、人間が存在するのには、然るべき理由があるはずだ。だって、神様が作ったんだから。

いや、果たして本当にそうだろうか。

人類の起源は、猿から進化したとか、色々あるし、本当に、自分という存在の意味は、石ころや大木より、勝った特別なものなのか。

多分違う。石ころや、大木と何ら変わらない、たまたま、偶然、今という時間に、ここに存在するだけだ。

存在するということに、特別な意味はない。ただ、そこにあるだけ。それだけだ。

「嘔吐」の導入部分は、ざっくり言うと、こんな感じだった。

カート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」では

存在している意味について。
自分でもいろいろ考えてみたし、様々な本を通して学んだことも沢山有る。

以前紹介したが、アメリカ文学の、カート・ヴォネガット・ジュニアが書いた「タイタンの妖女」では、

人間が生きる意味、存在している意味は、大したことじゃない。
そもそも、意味なんか必要ない。
意味なんか無くたって、自分が考えたこと、経験したこと、感動したことは、偽りのない、本当のことだろ?
それだけが、この世で、唯一信じられることだろ?
だから、安心して生きて良いんだよ、

と書いてあった。

タイタンの妖女を読んで。SFという形式を借りた、”優しい”哲学書に出会いました。

タイタンの妖女を読んで。SFという形式を借りた、”優しい”哲学書に出会いました。

生きる意味を、考えずに生きる。たしかに、そういう手もある。
生きる意味なんて、そんな小難しいことを考えるのは、哲学者に任せて、自分は自分の思うように生きる。
生きる意味について、真剣に考えてる人なんて、ごく少数だろう。僕自身、この溢れんばかり人がいる東京で、そんなこと考えてる人とは、たった数人しか出会ったことがない。
だけど、僕は、ここを考えるのは、とてつもなく重要な事だと感じている。

以前考えていた生きる意味

以前の僕は、自分が生きる意味は、「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残すため」と思って生きていた。
だから、世界中で使われるサービスを、自分自身で生み出したかったし、自分が世界に何か、どでかいインパクトを与えたいと思っていた。
世界に爪痕を残せなければ、自分という存在は、自分が生きていたという証明は、自分の身近な数人にしか共有できないことだと思っていた。

しかし、どうやらそれは間違っていたようだ。

事実は、「自分の身近な人にすら残せない。いや、自分自身にすら残らない。」ということだった。

それが、この、サルトルの「嘔吐」という本を読んでの、一番の気付きだ。

自分は、今たしかに生きている。間違いない。
そして、自分は、今、色々なことを考えている。
エンジニアとして習得したいスキル、やってみたいサービス、訪れてみたい国、読んでみたい文学作品、太宰治について、ロックバンドカッコイイなあ、その他もろもろ。
今、僕がそういうことを考えている、ということも紛れもなく真実だ。

しかし、それは、現時点での真実でしかない。
2週間前、僕は、一体何を考えていたのか。何をしていたのか。
そんなことは、最早、僕自身ですら分からない。
多分、こう考えていたんだろう、こういう仕事をしていた、っというのは分かる。
だけど、これは真実ではない。
そして、こんな記憶も、1ヶ月も経てば、また変わっているだろう。

僕は、その時点では存在していたんだろうが、時が経った今、振り返ってみると、よく分からない。
振り返ってみて、よく分からないことに、意味なんてあるはずがない。
つまり、存在はしていたんだろうが、意味はなかったということになる。
意味が無いのであれば、最初に述べた、石ころや大木の存在と、何ら変わらないことになる。

これは非常にまずいことだ。自分の存在が、時が経てば、意味が無くなるなんてことが、あってはならない。
じゃあ、どうすればいい。
どうすれば、僕が、きちんと存在していた、しっかり意味を持っていた、ということは証明できる?

存在を証明でき、意味を残せる答え

答えは、ただひとつ。それは、作品を残す、ということらしい。

例えば、最近僕が崇拝し始めた、太宰治。
彼は、もう亡くなっているが、彼の作品に感銘を受けた、僕がいる。
僕は、彼の作品を読んで、彼は生きていた当時何を考えていたんだろう、自分の人生についてどう考えていたんだろう、どういう心境で自殺したんだろう、彼の美学とは何なのか、
そういったことについて思い巡らせる。

自分が立てた人生の意味、「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残す」とは、つまり、こういうことだ。
死んでなお、誰かの心に、深く存在する。そういう風になりたかったんだ。

僕が尊敬してやまない、スティーブ・ジョブズだってそうだ。
彼が亡くなってからも、Appleはたえず進化している。
技術は常に世界の最先端をリードしている。
現在大流行中のiPhoneも、彼が最後に残したiPhone4Sと比べると、処理速度も格段に向上して、デザインだって変わった。
だけど、iPhone4Sは、今でもジョブズの最高傑作だと言われ、まだまだ現役で使い倒したい、と考える人だっている。

僕が好きなバンド、ELLEGARDEN、東京事変、GO!GO!7188、SUPERCAR だってそうだ。
彼らは、解散してるが、彼らが作った名曲は、今もなお名曲として残り続け、その価値は一切失われない。

つまり、作品を作れば、そこには、当時の思いや、やってきたこと何かが、全部凝縮されて、後世に残る。
一旦世に放ったものは、もう、誰にも汚されることはない。
ただの存在を超えた、決して朽ちることのない向こう側の世界へ、到達する。
僕が、自分の家にあるCDを全て叩き割って、小説も本も何もかも燃やしたとしても、その存在は決してなくならない。

自分がブログを書き始めたのだって、最初はそういう考えからだったはずだ。(読み返してないんで分からないが)
今の考え、情熱を向ける対象、感情、そういうものを残したくて始めた気がする。

僕がやるべきこと

かといって、やってきたこと、作った作品に、意味が芽生えるのは、それに触れて、それに何かを感じる人が現れてからだ。
それまでは、決してぶれない存在は確立できたが、まだ、石ころや大木と同じで、意味なんて無い。

だから、僕は、人に何か特別なインパクトを与える作品を作っていきたいと思う。
そういう意味で考えると、文学、絵画、映画、音楽、哲学、なんでも良いわけだが、それ相応の実力はどうしても必要だ。
バンドをやってみたいとかは思うけど、ギターは弾けないし、ドラムも叩けないし、歌もうまくないから、今はやめておこう。

文字で伝えること。それは、どうやら、下手ではないらしい。このブログだけでも、30記事以上書いてきている。人気ブロガーや、文学作家と比べると、大したことではないかもしれないが、自分以外の誰かと比べるのに意味なんて無い。勝っても負けても大した違いはない。この、常に意味を考えてしまう僕が、こんなにも書くことが出来たという、ただその事実だけで、我ながら、感動する。そしてまた、純粋に書くことは楽しい。

あとは、エンジニアだ。
エンジニアとしての僕のスキルは、今のところ、
Javaでhadoopを使う、
SwiftでiPhoneアプリを作る、
C# & Unityでゲームを作る、
GCP & AWSでインフラを管理する、
Shell Scriptでバッチを動かす、
Raspberry Piで遊ぶ、
たったそれだけだ。
それでも、若いからなのか、PCをいじることが好きだからなのか、スキルを習得しようと思えば、わりと容易にできる。そして、これも何より純粋に楽しい。

僕が、「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残す」という意味で、人に何か特別なインパクトを与える作品を作る上で、最も近いのは、いま挙げた、文学とエンジニアだろう。
もしかしたら、下手だけど、他のことがやりたくなって手を出すかもしれない。その時は、その時考えるとして、いまは、この二つに集中したいと思う。
勝算があるわけではないが、何かをやらないと気がすまないし、始まらない。

目的もなしに生きるってことは、僕には出来ない。逆に、目的があるからブレない。
特定の誰かのために、自分の貴重な時間を費やすということも、できそうにない。
だから、エンジニアとして作った作品は、SenKuSyaの作品として発表していく。
文学作品としてつくったものも、SenKuSyaとして公開していく。

「僕が存在したこと、存在した意味は、ただ自分の残した作品によってのみ、確立できるものだ」という結論を導き出したところで、締めくくろうと思う。

ちなみに、サルトルの「嘔吐」で、主人公が最終的に出した結論も、こんな具合です。
この本を読んで、僕は、今まで曖昧だった考えを、このように確立できたわけで、全てこの本ありきの内容です。

文学作品を読むことは素晴らしい。

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