(100点)太宰治の「斜陽」を情熱的に感想・評価・レビュー。さあ革命を起こそう

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どうもこんにちは、SenKuSya代表のKotaです。

今日は、太宰治の代表的な作品である「斜陽」について、僕自身の考えを述べながら書いていきたいと思います。


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「斜陽」について

「人間は恋と革命のために生れて来た」。古い道徳とどこまでも争い、“太陽のように生きる”べく、道ならぬ恋に突き進んでいく29歳のかず子。最後の貴婦人の誇りを胸に、結核で死んでいく母。自分の体に流れる貴族の血に抗いながらも麻薬に溺れ、破滅していく弟・直治。無頼な生活を送る小説家・上原。戦後の動乱の時代を生きる四人四様の、滅びの美しさを描き、戦後、ベストセラーになった、太宰の代表作。


斜陽という言葉の意味には、勢威・富貴などが衰亡に向かっていること、没落しつつあること、という意味があります。
この小説は、この意味を込めた物語になっています。

主人公であるかず子と、その母、そして弟の直治は、貴族でした。

しかし、貴族としての生活がずっと続くわけではなく、戦争をきっかけにかず子たちの家は押収され、暮らしは一変し、貴族としてではなく、貧乏人の暮らしを余儀なくされます。

そんな中でも、最後の貴婦人として振る舞い生きていく母。
貴族としての血を嫌い、民衆になりたいと思い、麻薬に溺れ破滅していく弟の直治。
かず子は、恋を通じながら、貴族を捨て、世間と戦うことを誓います。

簡單なあらすじを述べると、こんなところでしょうか。

物語としては物凄く面白く、中編小説なので、そんなに時間もかからず読めるかと思います。ぜひ読んでみてください。

そして、この物語には、心に響く言葉が多数散りばめてあります。
今回はその中でも気に入った部分を取り上げて、自分の考えを述べていきたいと思います。


人間は、みな、同じものだ

人間は、みな、同じものだ。なんという卑屈な言葉であろう。
人をいやしめると同時に、みずからをもいやしめ、何のプライドも無く、あらゆる努力を放棄せしめるような言葉。
マルキシズムは、働く者の優位を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。
民主々義は、個人の尊厳を主張する。同じものだ、などとは言わぬ。
ただ、牛太郎だけがそれを言う。「へへ、いくら気取ったって、同じ人間じゃねえか」
なぜ、同じだと言うのか。優れている、と言えないのか。奴隷根性の復讐。
けれども、この言葉は、実に猥せつで、不気味で、ひとは互いにおびえ、あらゆる思想が姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、栄光は引きずりおろされ、所謂「世紀の不安」は、この不思議な一語からはっしていると僕は思っているんです。
イヤな言葉だと思いながら、僕もやはりこの言葉に脅迫せられ、おびえて震えて、何を仕様としてもてれくさく、絶えず不安で、ドキドキして身の置きどころが無く、いっそ酒や麻薬の目まいに依って、つかのまの落ちつきを得たくて、そうして、めちゃくちゃになりました。
弱いのでしょう。どこか一つ重大な欠陥のある草なのでしょう。

人間は、みな、同じものだ。
誰もがよく聞くセリフだ。

この言葉を疑うこともなかった。

なぜ、自分のほうが優れていると言えないのか。

また、現実的に考えると、人間は同じでも平等でもない。
自分と同じような考えの人間も、同じような境遇の人間も、一人だっていやしない。

人間は、みな、同じだと考えることは、考えの放棄なのかもしれない。

努力をすれば、自分の成長は決して止まらない。

努力をして、栄光を勝ち取った人たちは、人間は、みな、同じだと言うだろうか。
そうすると、自分の努力をも否定したことになる。

努力もせず、プライドも無いような人たちが、人間は、みな、同じだと言って、そういったものを否定して、放棄していくのではないだろうか。

僕は、努力をやめない。
努力をして、その先で栄光を掴み取った時に、運が良かったとかではなく、自分の努力や思想のおかげだと、胸を張って言えるように生きていたいと思った。


革命を起こさなければならない

私だって、こうして、ローザルクセンブルグの本など読んで、自分がキザったらしく思われる事もないではないが、けれどもまた、やはり私は私なりに深い興味を覚えるのだ。
ここに書かれてあるのは、経済学という事になっているのだが、経済学として読むと、まことにつまらない。
実に単純でわかり切った事ばかりだ。
いや、或いは、私には経済学というものがまったく理解できないのかも知れない。
とにかく、私には、すこしも面白くない。
人間というものは、ケチなもので、そうして、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問で、ケチでない人にとっては、分配の問題でも何でも、まるで興味の無い事だ。
それでも私はこの本を読み、べつなところで、奇妙な興奮を覚えるのだ。
それは、この本の著者が、何の躊躇も無く、片端から旧来の思想を破壊して行くがむしゃらな勇気である。
どのように道徳に反しても、恋するひとのところへ涼しくさっさと走り寄る人妻の姿さえ思い浮ぶ。
破壊思想。破壊は、哀れで悲しくて、そうして美しいものだ。
破壊して、建て直して、完成しようという夢。
そうして、いったん破壊すれば、永遠に完成の日が来ないかも知れぬのに、それでも、したう恋ゆえに、破壊しなければならぬのだ。
革命を起さなければならぬのだ。ローザはマルキシズムに、悲しくひたむきの恋をしている。

革命とは何か。
思想や方法を一度破壊して、再度立て直すことだ。

革命を起こしたからといって、事態が以前より上手い方向に進んでいくとは限らない。
一旦破壊してしまえば、永遠に完成の日は来ないかもしれない。
それでも革命を起こさなければいけない。

僕は、とても素晴らしい考えだと思う。

人生なんて、革命そのものだ。
作っては壊してを繰り返しながら、不格好でも前に突き進んでいかなければならない。
完成の日など来ない。

もし、完成したとそこで歩みを止めてしまえば、それ以降の成長はもう二度とない。

ひたすらに、自分の作ったものを破壊しなければならないだろう。

僕は、沢山のものを破壊しては、また作り直してきた。

東京で働いてきた二年間、様々な場所で知識を習得したり、関係を構築したりしたが、それを全て投げ出して、いまシドニーにいる。
そんなことをしてきた理由は以下のブログに記載している。
オーストラリアに移住することになったので、きっかけをまとめておく

住む場所を変えたり、やる仕事を変えたりしたら、また一から作り直さないといけない。
それは手間のほうが大きい。

自分の作ったものを壊すのは、勿体ないかもしれない。
慣れ親しんだ場所に居続けたほうが、楽なのかもしれない。

だけど、僕はその時々で、こっちの方が正しいと思い、人生の選択をしてきた。
振り返っても、後悔は何一つない。

立ち止まった時点で、自分の終着点はその場所になる。
その決断を下すのに、本当に十分と思える経験を積んだか。まだ早いんじゃないか。
僕は常にそう考える。

もし、動き出したくても、動き出せないような状況ならば、もう全てから逃げてみるといい。
あの家入一真だって、何度も逃げてきた。
(98点)家入一真の自伝「こんな僕でも社長になれた」「我が逃走」を情熱的に感想・評価・レビュー

全てから逃げてみても、自分は意外としぶとく生きているってことに気づく。
どんな状況でも、意外と生きていけると気づく。

そう思えたら、次の一歩を踏み出すのはもう簡單だ。
そうやって、立ち止まらずに、前へ前へ進んでいこう。

それでもまだ、世間からの視線などが気になるようなら、次の言葉を贈りたい。

あれから十二年たったけれども、私はやっぱり更級日記から一歩も進んでいなかった。
いったいまあ、私はそのあいだ、何をしていたのだろう。
革命を、あこがれた事も無かったし、恋さえ、知らなかった。
いままで世間のおとなたちは、この革命と恋の二つを、最も愚かしく、いまわしいものとして私たちに教え、戦争の前も、戦争中も、私たちはそのとおりに思い込んでいたのだが、敗戦後、私たちは世間のおとなを信頼しなくなって、何でもあのひとたちの言う事の反対のほうに本当の生きる道があるような気がして来て、革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄だと噓ついて教えていたのに違いないと思うようになったのだ。
私は確信したい。
人間は恋と革命のために生れて来たのだ

そう、世間の言ってることなど、間違っていると思っても良い。
ただ自分の信じる道を生きていけばいい。

僕もそう信じて、生きています。

また、この作品を読んで一つ自分自身に思うところもありました。

もし、僕が貴族として生まれていたなら、主人公のかず子と同じように、革命を起こそうと考えられただろうか。。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

僕の考えはこれで終わりますが、ここで紹介しきれなかったお気に入りの文章も載せておきますので、是非確認してみてください。

それでは、また明日。


お気に入りの文章

待つ。ああ、人間の生活には、喜んだり怒ったり悲しんだり憎んだり、いろいろの感情があるけれども、けれどもそれは人間の生活のほんの一パーセントを占めているだけの感情で、あとの九十九パーセントは、ただ待って暮らしているのではないでしょうか。
幸福の足音が、廊下に聞えるのを今か今かと胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。生れて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、はかなく何かを待っている。みじめすぎます。
生れて来てよかったと、ああ、いのちを、人間を、世の中を、よろこんでみとうございます。
はばむ道徳を、押しのけられませんか。

「お母さま。私いままで、ずいぶん世間知らずだったのね」
と言い、それから、もっと言いたい事があったけれども、お座敷の隅で静脈注射の支度などしている看護婦さんに聞かれるのが恥ずかしくて、言うのをやめた。
「いままでって、……」
とお母さまは、薄くお笑いになって聞きとがめて、
「それでは、いまは世間を知っているの?」
私は、なぜだか顔が真赤になった。
「世間は、わからない」
とお母さまはお顔を向うむきにして、ひとりごとのように小さい声でおっしゃる。
「私には、わからない。わかっているひとなんか、無いんじゃないの? いつまで経っても、みんな子供です。なんにも、わかってやしないのです」
けれども、私は生きて行かなければならないのだ。
子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。
私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。
ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。
死んで行くひとは美しい。
生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。
私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。
けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。
あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。

ああ、何かこの人たちは、間違っている。
しかし、この人たちも、私の恋の場合と同じ様に、こうでもしなければ、生きて行かれないのかも知れない。
人はこの世の中に生れて来た以上は、どうしても生き切らなければいけないものならば、この人たちのこの生き切るための姿も、憎むべきではないかも知れぬ。
生きている事。生きている事。ああ、それは、何というやりきれない息もたえだえの大事業であろうか。

お酒をやめて、ご病気をなおして、永生きをなさって立派なお仕事を、などそんな白々しいおざなりみたいなことは、もう私は言いたくないのでございます。
「立派なお仕事」などよりも、いのちを捨てる気で、所謂悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世の人たちからかえって御礼を言われるようになるかも知れません。
犠牲者。道徳の過渡期の犠牲者。あなたも、私も、きっとそれなのでございましょう。
革命は、いったい、どこで行われているのでしょう。
すくなくとも、私たちの身のまわりに於いては、古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変らず、私たちの行く手をさえぎっています。
海の表面の波は何やら騒いでいても、その底の海水は、革命どころか、みじろぎもせず、狸寝入りで寝そべっているんですもの。

僕は下品になりました。下品な言葉づかいをするようになりました。
けれども、それは半分は、いや、六十パーセントは、哀れな附け焼刃でした。へたな小細工でした。
民衆にとって、僕はやはり、キザったらしく乙にすました気づまりの男でした。
彼等は僕と、しんから打ち解けて遊んでくれはしないのです。
しかし、また、いまさら捨てたサロンに帰ることも出来ません。
いまでは僕の下品は、たとい六十パーセントは人工の附け焼刃でも、しかし、あとの四十パーセントは、ほんものの下品になっているのです。
僕はあの、所謂上流サロンの鼻持ちならないお上品さには、ゲロが出そうで、一刻も我慢できなくなっていますし、また、あのおえらがたとか、お歴々とか称せられている人たちも、僕のお行儀の悪さに呆れてすぐさま放逐するでしょう。
捨てた世界に帰ることも出来ず、民衆からは悪意に満ちたクソていねいの傍聴席を与えられているだけなんです。

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