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又吉直樹の新刊「劇場」を情熱的に感想・レビュー。滅びの美しさを描く作品。 

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どうも、佐野です。前回、ルソー著作の「言語起源論」について次回はレビューすると告知しておりましたが…思ったんですよ、哲学書の感想って何書けばいいんだろ、って。なぜなら、小説と違って、哲学書は論文的なものであるから、それを逐一、解説?するのもおかしいな〜って。(単に私の力不足)私が哲学書のレビューをするなら、きっと文中から引用するだけのものになると思う。笑 さてさて、言い訳は終わりました!早速レビューをしていきたいと思います! 又吉直樹の新刊「劇場」を読んでみた 言わずもがな、芸人の又吉直樹が書いた小説です。話題作となった「火花」で、私、思わず涙。それが次回作に興味が惹かれるきっかけとなり、最近発売された「劇場」を読んだのですが、実はこれ、「火花」よりも前に書いていたそうで、二年もかかったとか。今回読んだ「劇場」は読者によって、好みが分かれそうなジャンル、つまりラブストーリーですが…。否、ラブストーリーだけで括られない気がする。 あらすじ 舞台は東京。主人公永田は脚本家を目指し、上京してきた。そんな永田が一目惚れした女、沙希と出会うことによって、物語は進む。沙希も上京してきた身で、永田と付き合うと同時に、永田は沙希の優しさに甘え、ヒモ同然の生活を送っていた。それが沙希をだんだんと追い詰めているとは気付かずに、次第に二人の関係は崩壊していく.. 物語を読み解くキー ・永田と沙希は演劇が好き ・永田と沙希は上京してきた者同士 ・永田と沙希のやりたいことへの執着度 [amazonjs asin="4103509511" locale="JP" title="劇場"] 深読みするために必要な予備知識 いきなりですが、太宰治が書いた「斜陽」という作品で、太宰は滅びの美しさを描いています。又吉直樹自身も、太宰を崇拝していることもあって、この「斜陽」から何かしらの影響を受けたはずです。「劇場」を初めから終わりまで読んで、私は「劇場」に「斜陽」に近いものを感じ取りました。ここでいう滅びの美しさとは?例えば、戦時中の日本では、戦争に出向くことは、死と、少なからず、イコールだった日本人にとって、「敵地へと赴く彼らの姿は、勇敢で、誇り高いものだ」そう思ったことでしょう。映画「永遠の0」のラストの描写で震えたったのを今でも覚えています。また、ある夫婦がいたとして、夫は妻が居ながら、頻繁に他の女と遊び呆けている一方で、妻は家で、ただただ夫の帰りを待つ。なぜただ、待ち続けることができるのか?それは妻は夫のことを愛しているが故、もちろん、そこに明確な理由は存在しないし、それを論理立てて解き明かしたり、言語化するなどと言ったことは到底できないので、妻が夫を思いながら家で一人、待ち続ける行為を、私はただ「愛しているからでしょ」で片付けてしまうが、愛しているからこそ、夫のことを許せるのだ。夫が帰ってきた時、一体どれくらい痛みが分かる笑顔で、妻は夫に「ただいま」と言うのか。その儚くも廃れる存在をみて、私たちは何を思うのでしょうか。 何を伝えたかったのか①(印象に残った部分) 永田は、自意識が高すぎて、高みをいつまでも目指していていて、その理想と現実のギャップに苦しんでいます。この自意識というのは、自我の意識、元を辿れば、それは周りとの差異によって生まれる嫉妬心に、過ぎないのですが、逆境によって人は活動的になることは否めません。反対に、沙希は無学が故に、ただ生活ができればいいと言った具合でしょうか。日々の生活、明日の朝ごはん、ドラマの続き..etc。 作中の印象的な文がこちら 嫉妬という感情は何のために人間に備わっているのだろう。なにかしらの自己防衛として機能することがあるのだろうか、嫉妬によって焦燥に駆られた人間の活発な行動を促すためだろうか、それなら人生のほとんどのことは思い通りにならないのだから、その感情が嫉妬ではなく諦観のようなものであったなら人生はもっと有意義なものになるのではないか。自分の持っていないものを欲しがったり、自分よりも能力の高い人間を妬む精神の対処に追われて、似たような境遇のもので集まり、嫉妬する対象をこき下ろし世間の評価がまるでそうであるように錯覚させようと試みたり、自分に嘘をついて感覚を麻痺させたところで、本人の成長というものは期待できない。他人の失敗や不幸を願う、その癖、そいつが本当に駄目になりそうだったら同類として迎え入れる。その時は自分が優しい人間なんだと信じ込もうとしたりする。この汚い感情は何のためにあるのだ。人生に期待するのはいい加減やめたらどうだ。自分の行いによってのみ前向きな変化の可能性があるという健やかさで生きていけないものか。この嫉妬という機能を外してもらえないだろうか。 ※諦観(ていかん)は、現状を受け入れる潔さ、悟って諦めること、という意味。 物語の最後で沙希は、”自分が東京に圧倒されて、自分の意思で抑制できないほどの喪失感を味わったから、もうどうすることもできなくて、諦観する立場へ行ったんだよ。”という意味合いの言葉を永田に伝えています。沙希という人物像は、作中では純粋極まりない女性として描かれて、また沙希の将来に対するビジョンも描かれていなく、純粋が故に、嫉妬が生み出すパワーというものを理解できず、理解の範疇は超えているけれども、そのパワーを持ち合わせている永田を、ただただ尊敬の眼差しで見ていました。当たり前ですが、作中では沙希の心情が全く読み取れないのでこの考えが、果たして正しいかどうかは分かりません!もっとも、一概に良し悪しを判断できないというのは、小説の醍醐味ですね。 何を伝えたかったのか②(まとめ) 永田は変わらない存在、沙希は変わってゆく存在として描かれていて、永田の変わらないところは、何かと戦う執念を持ち合わせていること。沙希の変わったところは、二つあって、どっちか分からないのですが何かと戦う執念を自分は持っていないと気づいたこと、または、ただ単に戦う執念を捨てたこと。この二つのうちどれかでしょう。 永田は生き続ける存在、沙希はあとは死にゆくだけの存在の対比を描いた作品。永田は囚われ続け、沙希は解放されたとも言えるでしょう。また、男性が女性に対する思いと実際に行動することとのズレも書かれていて、多分、どの男性も交際経験のある方ならば、「劇場」を読むと、自分のことのように思うのではないでしょうか。女性も男性のことをより理解を促せるきっかけとなるのではないでしょうか。結構奥が深いので、何度も読むに値する本だと思います!続きが気になります! [amazonjs asin="4103509511" locale="JP" title="劇場"]

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芥川賞受賞作「しんせかい」を情熱的に感想・レビュー。過去と現在の自分の関係

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初めまして、都内でフリーランスとして活動中の佐野と言います。 原田さんとは、仕事と読書繋がりで何度かお会いすることがあり、 「senkusyaでブログを書いてみない?」 とのお誘いがありましたので今回お手伝いさせていただくことになりました。 どうかよろしくお願いします。 では、早速本のレビューをしていきたいと思います! 山下澄人の「しんせかい」のあらすじ 大まかなあらすじはこんな感じ 第156回芥川賞を受賞した「しんせかい」 19歳の山下スミト(著者)は大自然の中にある演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。たどり着いた先の[谷]では、俳優や脚本家志望の若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、[先生]との軋轢、地元の女性と同期の間で揺れ動く感情。思い出すことの痛みと向き合い、著者自身が経験したことを描いた自伝的な小説。 [amazonjs asin="4103503610" locale="JP" title="しんせかい"] しんせかいを読んでの気づき 初めの数ページを読んでみると分かるのですが、初めから終わりまで、書き手の記憶が曖昧で、いい加減ですが、その文体が著者の狙いでもあるのでしょう。 例えば 空気が冷たい。鹿だ。鹿がいた。鹿は真っ黒な目でこちらを見ていた。 意味もない文章を連ねているように見えるのですが、実は、ただ存在するものを誠実に受けとめているのです! 自分以外の存在を認める時、言語以外に、それは存在するでしょうか?(ちなみに愛情は人を許すことができる最も素晴らしい情念です。)自分以外の対象に評価を下す時、人間は皆、己のものさしで自分以外を推し量りがちです。この私の考えも誰かにとって、真っ当な評価を得られないように。 著者は、その一切の境界線を払い捨て、 「ああ、鹿がいる。ただそれだけ。何もいうことはあるまい」と言い切っているのです。 余談ですが動物の中で、同じ感覚器官があるのにも関わらず、言葉を記号として記したり共有できるのは人間だけです。その記号によって、私たちはお互いの思っていることを様々ツールを使って相手のことを知ることができます。それは、本であり、歌であったり、そして記号を発明したのは人間の財産でもあり、それは最終的に私たち人間の不幸の前触れでもあるのです。 (とだいぶ話が逸れましたが、最近読んだルソーの言語起源論に、かなり感化されているので、次回は言語起源論について触れます。詳しくは、次回詳しく書きますので、是非読んでください!) この著者は、過ぎ去った過去を小説にして振り返っているのですが、話し言葉を多用しているので、長ったらしく、使われる言葉の表現の仕方にはどんな意図があるのかを、非常に限定的にし、かなり意図的に表現をし、想像することの面白さを味あわせてくれない、また、なんの意味もなく言葉を連ねる、ということはなくて読んでて楽しかったです。抽象的な表現は読み手の想像力を掻き立てるのに最も有効な手立てです。また、作者は過ぎ去ったことを書いているようで、実は現在とあまり変わりないことも暗に示しています。 過去の自分はすでに死んでしまったもの、過去の遺物として著者は認識しており、そのことに関しては非常に共感できました。というのも、昨日の自分がしたことなんて、はっきりと思い出せないですし、私は、自分の考えを、過去にまとめた文を読んで、「これ本当に自分が書いたの?」となりがちです。確かに、その考えは自分の中では生きてはいるのですが、こんなことは書くまでもないし、今の自分には今更必要ないことだなと。ただ今に集中する方が優先事項ではありますよね。 何を伝えたかったのか① 物語に出てくる人たちは、演劇の鍛錬をしにきたはずなのに、演劇とは全く関係ない、自分たちが飼っている馬の小屋を建てたり、薪を割ったりと、直接的に関係ないことばかりをしています。おそらく読んでいてツッコミどころ満載だと思うかもしれません。無意味なことが意味のあることに繋がるんだよ!と作者は伝えたいのでしょう。 一方で、主人公はその演劇とはなんの関係もないことをやる中で、何を感じていたのか。次の文で表しています。 面白いというのはその時の状況というか、状態というか、そういうものが大きく影響をするわけで ものごとは便利になり余裕が生まれるほど切羽詰まれなくなり堕落する つまり人間は切羽詰まれば詰まるほど、いい功績を残せるということです。不自由な環境にいる、ということは、自分自身を追い詰めて己に内在する誰でも持ち合わせている、秘めた何か、その何かを引き起こす最大の要因となっているのです。どこで革命を起こそうが、自分自身と向き合わないことには、何も新たな発見などないのです。例えば、海外に行くことはいい刺激になるということは認めますが、本来、全ての鍵は自分自身が保有している、と私は思いました。 何を伝えたかったのか②(忙しい人はこの記事から読むことをオススメします!) この作品のラストは衝撃的な一文で締めくくられています。その一文のためにこの本が存在すると言っても過言ではないでしょう。 おそらくこの一文で作者は、こう言いたかったのでしょう。自分自身が現在進行形で感じていることは確かだが、たとえ一秒前でも、それは紛れもなく過去で、その過去は、もはや今の自分自身とはなんら関係はないし、なんの意味も持たないよ、過去の自分に文句があるなら、今の自分に言わないでくれよな、俺は先へ進んでいるだけだ。そして、ライン作業みたいに、世界で起こっていることは、全て諸行無常である。ただその流れに従うまでだ。以上。   [amazonjs asin="4103503610" locale="JP" title="しんせかい"]