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火花を情熱的に感想・レビュー。情熱的な生き方とはズバリこの事だと思った。

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 最近情熱に関して、思うところがたくさんあるなと思ったので、今日は情熱をテーマにした小説である、又吉直樹の「火花」について語っていきたいと思います。 「火花」については、以前も取り上げたことがありましたが(火花を読んで。理想を生きるということ。)、前回は基本的に動画で僕が話しているだけで、記事としては残っていなかったのと、その時の気持ちと今では、また気持ちが変わっているなと思ったので、今回改めて、記事としてきちんとまとめたいと思います。 [amazonjs asin="B01685OSEO" locale="JP" title="火花"] [adsense_tag] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 情熱を持って生きているか 自分の原動力はなんなのか。自分は何のために、エンジニアとして働いたり、ブログを書いたり、アプリを作ったり、文学を読んだりしているのか。 絶対に違うと言えることは、決してお金のためではないということだ。それが目的なら、もっと効率の良い手段はあるだろう。 何のためにやっているのかと問われれば、それが自分の心を果てし無く躍らせるからだ。 逆に言えば、今やっていることでも、今までずっと続けてきたことでも、それが自分の心を今までのように最高に踊らせなくなったと感じたのなら、いくら今までそこにお金と時間と努力を費やしてきたとしても、颯爽とやめるべきだと、僕は思っている。 だからこそ、自分が今やっていることについては、毎日毎日、その行動を起こす前に、一度、「本当にこれを、今自分はやるべきなのか?」という問いをかけるべきである。 たった一回そうじゃないと思っただけで、じゃあすぐにやめろとまでは言わないが、それが数回連続で続くようなら、間違いなくやめるべきである。 その問いをかけた時に、「今やるべき!」という結論が出たのなら、そこには、何かしらの情熱を持っているはずだ。少なくとも自分はそう思っている。 情熱というのは、やる気という意味でもあるが、それよりも僕は、それにかける想いや、自分がずっと信じている美徳や、言い表せないほどの熱い感情なんじゃないかと、最近思っている。 そういう情熱を自分は持っているのか?今ははっきりと持っていると答えることができる。 「情熱なんていらなくない? クールにスマートに行動した方がカッコよくない? 物事を冷静に客観的に判断できる人の方が凄くない? 情熱が一体どれだけのお金や名誉や地位をもたらしてくれるっていうの?」 そう思う人もいるかもしれない。金持ちで、偉い役職についていて、常に俯瞰的な立場から物事を言っている人の方が、凄い人物に思うかもしれない。 だけどそうじゃない。 前回、『サルトルの「嘔吐」を読んで考える、自分という存在への、意味の持たせ方』という記事をアップして、そこにも色々と書いたが、自分の人生に価値をもたらしてくれるものっていうのは、意外とそういうものじゃない。そういう、自分が死んだら、後に残らないものじゃない。 そういう、富や名誉や地位を求める欲求よりも、たった一つ比類なき情熱を注ぎ込める人の方が、圧倒的に強い。 圧倒的に強くて、圧倒的に良いものを後世に残せる。そして、圧倒的にカッコいい。 それはもう、誰が何と言おうと、間違いはない。逆に言えば、あらゆる状況において、それだけが唯一ぶれないものだ。 だけど、そういう果てしない情熱を持っている人が、身の回りにどれだけいるか。自分の友人、会社の同僚、先輩、兄弟、そういう人に聞いてみたらどうだろうか。物凄く少ないはずだ。 これを読んでいるあなたは一体どうでしょう。揺るぎない、情熱や哲学や美徳を持っていますか? 持っていないなら、是非、情熱を持っているということが、どれだけ素晴らしいことなのか、この「火花」という文学から感じ取ってほしい。持っている人なら、この「火花」という文学を読んで、それをこの先の人生でずっと信じられるように、自分の中で揺るぎのないものとして確立して言ってほしい。 それでは、前置きは長くなったが、「火花」から僕が感じたことを述べていきたいと思う。 笑いとは何か、人間とは何か、葛藤とは何か 売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。 「火花」という小説のストーリーは、端的に言うと、売れない芸人がどう生きていくか、というそこに焦点を当てた文学だ。 そこに描かれているのは、笑いとは何か、を深く追求する僕であり、 芸人を目指すという人生を選択した僕と神谷の二人であり、 自分の考え方や感じ方と全く違う世間からの評価であり、 圧倒的天才に置いてけぼりにされないよう、なんとか追いつこうとする、僕の葛藤である。 この文学を読み終えた時に、情熱に生きる人生というものは、こういうことなのかと、一つのモデルを深く体験できたような気になる。 ここには紛れもなく、一人の(現実よりも)濃い人生が詰まっている。 なので、このブログでは、最も印象に残ったセリフを三つに絞って、それに対する自分の考えも合わせて綴っていきたいと思う。印象に残った部分は他にもたくさんあるので、最後に全部まとめておきます。時間がある方は、是非そちらも読んでみてください。 不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった  出来ないのだ。神谷さんが、この漫才を面白くないと言うのなら、もう僕には出来ない。    僕は神谷さんとは違うのだ。僕は徹底的な異端にはなりきれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることも出来ない。噓を吐くことは男児としてみっともないからだ。知っている。そんな陳腐な自尊心こそみっともないなどという平凡な言葉は何度も聞いてきた。でも、無理なのだ。最近は独りよがりではなく、お客さんを楽しませることが出来るようになったと思っていた。妥協せずに、騙さずに、自分にも噓を吐かずに、これで神谷さんに褒められたら最高だと一人でにやついていた。昔よりも笑い声を沢山聞けるようになったから、神谷さんの笑い声も聞けるんじゃないかと思っていた。でも、全然駄目だった。日常の不甲斐ない僕はあんなにも神谷さんを笑わすことが出来るのに、舞台に立った僕で神谷さんは笑わない。    神谷さんが、何を見て、何を面白いと思っているのか、どうすれば神谷さんが笑ってくれるのか、そんなことばかり考えていた。美しい風景を台なしにすることこそが、笑いだと言うのなら、僕はそうするべきだと思った。それが芸人としての正しい道だと信じていた。    僕は本当に自分に噓を吐かなかっただろうか。    神谷さんは真正のあほんだらである。日々、意味のわからない阿呆陀羅経を、なぜか人を惹き付ける美声で唱えて、毎日少しのばら銭をいただき、その日暮らしで生きている。無駄なものを背負わない、そんな生き様に心底憧れて、憧れて、憧れ倒して生きてきた。    僕は面白い芸人になりたかった。僕が思う面白い芸人とは、どんな状況でも、どんな瞬間でも面白い芸人のことだ。神谷さんは僕と一緒にいる時はいつも面白かったし、一緒に舞台に立った時は、少なくとも、常に面白くあろうとした。神谷さんは、僕の面白いを体現してくれる人だった。神谷さんに憧れ、神谷さんの教えを守り、僕は神谷さんのように若い女性から支持されずとも、男が見て面白いと熱狂するような、そんな芸人になりたかった。言い訳をせず真正面から面白いことを追求する芸人になりたかった。不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった。    神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている。それを楽しみながらやっているのだから手に負えない。自分の作り上げたものを、平気な顔して屁でも垂れながら、破壊する。その光景は清々しい。敵わない。 […]

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又吉直樹の新刊「劇場」を情熱的に感想・レビュー。滅びの美しさを描く作品。 

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どうも、佐野です。前回、ルソー著作の「言語起源論」について次回はレビューすると告知しておりましたが…思ったんですよ、哲学書の感想って何書けばいいんだろ、って。なぜなら、小説と違って、哲学書は論文的なものであるから、それを逐一、解説?するのもおかしいな〜って。(単に私の力不足)私が哲学書のレビューをするなら、きっと文中から引用するだけのものになると思う。笑 さてさて、言い訳は終わりました!早速レビューをしていきたいと思います! 又吉直樹の新刊「劇場」を読んでみた 言わずもがな、芸人の又吉直樹が書いた小説です。話題作となった「火花」で、私、思わず涙。それが次回作に興味が惹かれるきっかけとなり、最近発売された「劇場」を読んだのですが、実はこれ、「火花」よりも前に書いていたそうで、二年もかかったとか。今回読んだ「劇場」は読者によって、好みが分かれそうなジャンル、つまりラブストーリーですが…。否、ラブストーリーだけで括られない気がする。 あらすじ 舞台は東京。主人公永田は脚本家を目指し、上京してきた。そんな永田が一目惚れした女、沙希と出会うことによって、物語は進む。沙希も上京してきた身で、永田と付き合うと同時に、永田は沙希の優しさに甘え、ヒモ同然の生活を送っていた。それが沙希をだんだんと追い詰めているとは気付かずに、次第に二人の関係は崩壊していく.. 物語を読み解くキー ・永田と沙希は演劇が好き ・永田と沙希は上京してきた者同士 ・永田と沙希のやりたいことへの執着度 [amazonjs asin="4103509511" locale="JP" title="劇場"] 深読みするために必要な予備知識 いきなりですが、太宰治が書いた「斜陽」という作品で、太宰は滅びの美しさを描いています。又吉直樹自身も、太宰を崇拝していることもあって、この「斜陽」から何かしらの影響を受けたはずです。「劇場」を初めから終わりまで読んで、私は「劇場」に「斜陽」に近いものを感じ取りました。ここでいう滅びの美しさとは?例えば、戦時中の日本では、戦争に出向くことは、死と、少なからず、イコールだった日本人にとって、「敵地へと赴く彼らの姿は、勇敢で、誇り高いものだ」そう思ったことでしょう。映画「永遠の0」のラストの描写で震えたったのを今でも覚えています。また、ある夫婦がいたとして、夫は妻が居ながら、頻繁に他の女と遊び呆けている一方で、妻は家で、ただただ夫の帰りを待つ。なぜただ、待ち続けることができるのか?それは妻は夫のことを愛しているが故、もちろん、そこに明確な理由は存在しないし、それを論理立てて解き明かしたり、言語化するなどと言ったことは到底できないので、妻が夫を思いながら家で一人、待ち続ける行為を、私はただ「愛しているからでしょ」で片付けてしまうが、愛しているからこそ、夫のことを許せるのだ。夫が帰ってきた時、一体どれくらい痛みが分かる笑顔で、妻は夫に「ただいま」と言うのか。その儚くも廃れる存在をみて、私たちは何を思うのでしょうか。 何を伝えたかったのか①(印象に残った部分) 永田は、自意識が高すぎて、高みをいつまでも目指していていて、その理想と現実のギャップに苦しんでいます。この自意識というのは、自我の意識、元を辿れば、それは周りとの差異によって生まれる嫉妬心に、過ぎないのですが、逆境によって人は活動的になることは否めません。反対に、沙希は無学が故に、ただ生活ができればいいと言った具合でしょうか。日々の生活、明日の朝ごはん、ドラマの続き..etc。 作中の印象的な文がこちら 嫉妬という感情は何のために人間に備わっているのだろう。なにかしらの自己防衛として機能することがあるのだろうか、嫉妬によって焦燥に駆られた人間の活発な行動を促すためだろうか、それなら人生のほとんどのことは思い通りにならないのだから、その感情が嫉妬ではなく諦観のようなものであったなら人生はもっと有意義なものになるのではないか。自分の持っていないものを欲しがったり、自分よりも能力の高い人間を妬む精神の対処に追われて、似たような境遇のもので集まり、嫉妬する対象をこき下ろし世間の評価がまるでそうであるように錯覚させようと試みたり、自分に嘘をついて感覚を麻痺させたところで、本人の成長というものは期待できない。他人の失敗や不幸を願う、その癖、そいつが本当に駄目になりそうだったら同類として迎え入れる。その時は自分が優しい人間なんだと信じ込もうとしたりする。この汚い感情は何のためにあるのだ。人生に期待するのはいい加減やめたらどうだ。自分の行いによってのみ前向きな変化の可能性があるという健やかさで生きていけないものか。この嫉妬という機能を外してもらえないだろうか。 ※諦観(ていかん)は、現状を受け入れる潔さ、悟って諦めること、という意味。 物語の最後で沙希は、”自分が東京に圧倒されて、自分の意思で抑制できないほどの喪失感を味わったから、もうどうすることもできなくて、諦観する立場へ行ったんだよ。”という意味合いの言葉を永田に伝えています。沙希という人物像は、作中では純粋極まりない女性として描かれて、また沙希の将来に対するビジョンも描かれていなく、純粋が故に、嫉妬が生み出すパワーというものを理解できず、理解の範疇は超えているけれども、そのパワーを持ち合わせている永田を、ただただ尊敬の眼差しで見ていました。当たり前ですが、作中では沙希の心情が全く読み取れないのでこの考えが、果たして正しいかどうかは分かりません!もっとも、一概に良し悪しを判断できないというのは、小説の醍醐味ですね。 何を伝えたかったのか②(まとめ) 永田は変わらない存在、沙希は変わってゆく存在として描かれていて、永田の変わらないところは、何かと戦う執念を持ち合わせていること。沙希の変わったところは、二つあって、どっちか分からないのですが何かと戦う執念を自分は持っていないと気づいたこと、または、ただ単に戦う執念を捨てたこと。この二つのうちどれかでしょう。 永田は生き続ける存在、沙希はあとは死にゆくだけの存在の対比を描いた作品。永田は囚われ続け、沙希は解放されたとも言えるでしょう。また、男性が女性に対する思いと実際に行動することとのズレも書かれていて、多分、どの男性も交際経験のある方ならば、「劇場」を読むと、自分のことのように思うのではないでしょうか。女性も男性のことをより理解を促せるきっかけとなるのではないでしょうか。結構奥が深いので、何度も読むに値する本だと思います!続きが気になります! [amazonjs asin="4103509511" locale="JP" title="劇場"]

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芥川賞受賞作「しんせかい」を情熱的に感想・レビュー。過去と現在の自分の関係

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初めまして、都内でフリーランスとして活動中の佐野と言います。 原田さんとは、仕事と読書繋がりで何度かお会いすることがあり、 「senkusyaでブログを書いてみない?」 とのお誘いがありましたので今回お手伝いさせていただくことになりました。 どうかよろしくお願いします。 では、早速本のレビューをしていきたいと思います! 山下澄人の「しんせかい」のあらすじ 大まかなあらすじはこんな感じ 第156回芥川賞を受賞した「しんせかい」 19歳の山下スミト(著者)は大自然の中にある演劇塾で学ぶため、船に乗って北を目指す。たどり着いた先の[谷]では、俳優や脚本家志望の若者たちが自給自足の共同生活を営んでいた。苛酷な肉体労働、[先生]との軋轢、地元の女性と同期の間で揺れ動く感情。思い出すことの痛みと向き合い、著者自身が経験したことを描いた自伝的な小説。 [amazonjs asin="4103503610" locale="JP" title="しんせかい"] しんせかいを読んでの気づき 初めの数ページを読んでみると分かるのですが、初めから終わりまで、書き手の記憶が曖昧で、いい加減ですが、その文体が著者の狙いでもあるのでしょう。 例えば 空気が冷たい。鹿だ。鹿がいた。鹿は真っ黒な目でこちらを見ていた。 意味もない文章を連ねているように見えるのですが、実は、ただ存在するものを誠実に受けとめているのです! 自分以外の存在を認める時、言語以外に、それは存在するでしょうか?(ちなみに愛情は人を許すことができる最も素晴らしい情念です。)自分以外の対象に評価を下す時、人間は皆、己のものさしで自分以外を推し量りがちです。この私の考えも誰かにとって、真っ当な評価を得られないように。 著者は、その一切の境界線を払い捨て、 「ああ、鹿がいる。ただそれだけ。何もいうことはあるまい」と言い切っているのです。 余談ですが動物の中で、同じ感覚器官があるのにも関わらず、言葉を記号として記したり共有できるのは人間だけです。その記号によって、私たちはお互いの思っていることを様々ツールを使って相手のことを知ることができます。それは、本であり、歌であったり、そして記号を発明したのは人間の財産でもあり、それは最終的に私たち人間の不幸の前触れでもあるのです。 (とだいぶ話が逸れましたが、最近読んだルソーの言語起源論に、かなり感化されているので、次回は言語起源論について触れます。詳しくは、次回詳しく書きますので、是非読んでください!) この著者は、過ぎ去った過去を小説にして振り返っているのですが、話し言葉を多用しているので、長ったらしく、使われる言葉の表現の仕方にはどんな意図があるのかを、非常に限定的にし、かなり意図的に表現をし、想像することの面白さを味あわせてくれない、また、なんの意味もなく言葉を連ねる、ということはなくて読んでて楽しかったです。抽象的な表現は読み手の想像力を掻き立てるのに最も有効な手立てです。また、作者は過ぎ去ったことを書いているようで、実は現在とあまり変わりないことも暗に示しています。 過去の自分はすでに死んでしまったもの、過去の遺物として著者は認識しており、そのことに関しては非常に共感できました。というのも、昨日の自分がしたことなんて、はっきりと思い出せないですし、私は、自分の考えを、過去にまとめた文を読んで、「これ本当に自分が書いたの?」となりがちです。確かに、その考えは自分の中では生きてはいるのですが、こんなことは書くまでもないし、今の自分には今更必要ないことだなと。ただ今に集中する方が優先事項ではありますよね。 何を伝えたかったのか① 物語に出てくる人たちは、演劇の鍛錬をしにきたはずなのに、演劇とは全く関係ない、自分たちが飼っている馬の小屋を建てたり、薪を割ったりと、直接的に関係ないことばかりをしています。おそらく読んでいてツッコミどころ満載だと思うかもしれません。無意味なことが意味のあることに繋がるんだよ!と作者は伝えたいのでしょう。 一方で、主人公はその演劇とはなんの関係もないことをやる中で、何を感じていたのか。次の文で表しています。 面白いというのはその時の状況というか、状態というか、そういうものが大きく影響をするわけで ものごとは便利になり余裕が生まれるほど切羽詰まれなくなり堕落する つまり人間は切羽詰まれば詰まるほど、いい功績を残せるということです。不自由な環境にいる、ということは、自分自身を追い詰めて己に内在する誰でも持ち合わせている、秘めた何か、その何かを引き起こす最大の要因となっているのです。どこで革命を起こそうが、自分自身と向き合わないことには、何も新たな発見などないのです。例えば、海外に行くことはいい刺激になるということは認めますが、本来、全ての鍵は自分自身が保有している、と私は思いました。 何を伝えたかったのか②(忙しい人はこの記事から読むことをオススメします!) この作品のラストは衝撃的な一文で締めくくられています。その一文のためにこの本が存在すると言っても過言ではないでしょう。 おそらくこの一文で作者は、こう言いたかったのでしょう。自分自身が現在進行形で感じていることは確かだが、たとえ一秒前でも、それは紛れもなく過去で、その過去は、もはや今の自分自身とはなんら関係はないし、なんの意味も持たないよ、過去の自分に文句があるなら、今の自分に言わないでくれよな、俺は先へ進んでいるだけだ。そして、ライン作業みたいに、世界で起こっていることは、全て諸行無常である。ただその流れに従うまでだ。以上。   [amazonjs asin="4103503610" locale="JP" title="しんせかい"]

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サルトル「嘔吐」を情熱的に感想・レビュー。自分自身の人生へ意味を持たせる為に、大事なこととは。

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SenKuSya代表の原田です。 今日は、最近読んで感銘を受けた、サルトルの「嘔吐」というフランス文学について、思ったことを記していきたいと思う。 [amazonjs asin="4409130315" locale="JP" title="嘔吐 新訳"] [adsense_tag] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 存在の意味について 例えば、道端に石ころが転がっていたとする。多分誰も気にも留めないだろう。 公園に行くと、大きな木が生えていた。大きな木が生えているなあということぐらいしか、思わない。 自分という人間がいる。よく分からないで生きてるけど、「生きている」ってことは、たしかに感じ取れる。 石ころや、大木と比べると、「存在」という観点では、私という人間の「存在」は価値が違うはずだ。 キリスト教の考えによると、人間というものは、神様が、自分と似せて造ったらしい。 だから、石ころや、大木と違って、人間が存在するのには、然るべき理由があるはずだ。だって、神様が作ったんだから。 いや、果たして本当にそうだろうか。 人類の起源は、猿から進化したとか、色々あるし、本当に、自分という存在の意味は、石ころや大木より、勝った特別なものなのか。 多分違う。石ころや、大木と何ら変わらない、たまたま、偶然、今という時間に、ここに存在するだけだ。 存在するということに、特別な意味はない。ただ、そこにあるだけ。それだけだ。 「嘔吐」の導入部分は、ざっくり言うと、こんな感じだった。 カート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」では 存在している意味について。 自分でもいろいろ考えてみたし、様々な本を通して学んだことも沢山有る。 以前紹介したが、アメリカ文学の、カート・ヴォネガット・ジュニアが書いた「タイタンの妖女」では、 人間が生きる意味、存在している意味は、大したことじゃない。 そもそも、意味なんか必要ない。 意味なんか無くたって、自分が考えたこと、経験したこと、感動したことは、偽りのない、本当のことだろ? それだけが、この世で、唯一信じられることだろ? だから、安心して生きて良いんだよ、 と書いてあった。 タイタンの妖女を読んで。SFという形式を借りた、”優しい”哲学書に出会いました。 生きる意味を、考えずに生きる。たしかに、そういう手もある。 生きる意味なんて、そんな小難しいことを考えるのは、哲学者に任せて、自分は自分の思うように生きる。 生きる意味について、真剣に考えてる人なんて、ごく少数だろう。僕自身、この溢れんばかり人がいる東京で、そんなこと考えてる人とは、たった数人しか出会ったことがない。 だけど、僕は、ここを考えるのは、とてつもなく重要な事だと感じている。 以前考えていた生きる意味 以前の僕は、自分が生きる意味は、「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残すため」と思って生きていた。 だから、世界中で使われるサービスを、自分自身で生み出したかったし、自分が世界に何か、どでかいインパクトを与えたいと思っていた。 世界に爪痕を残せなければ、自分という存在は、自分が生きていたという証明は、自分の身近な数人にしか共有できないことだと思っていた。 しかし、どうやらそれは間違っていたようだ。 事実は、「自分の身近な人にすら残せない。いや、自分自身にすら残らない。」ということだった。 それが、この、サルトルの「嘔吐」という本を読んでの、一番の気付きだ。 自分は、今たしかに生きている。間違いない。 そして、自分は、今、色々なことを考えている。 エンジニアとして習得したいスキル、やってみたいサービス、訪れてみたい国、読んでみたい文学作品、太宰治について、ロックバンドカッコイイなあ、その他もろもろ。 今、僕がそういうことを考えている、ということも紛れもなく真実だ。 しかし、それは、現時点での真実でしかない。 2週間前、僕は、一体何を考えていたのか。何をしていたのか。 そんなことは、最早、僕自身ですら分からない。 多分、こう考えていたんだろう、こういう仕事をしていた、っというのは分かる。 だけど、これは真実ではない。 そして、こんな記憶も、1ヶ月も経てば、また変わっているだろう。 僕は、その時点では存在していたんだろうが、時が経った今、振り返ってみると、よく分からない。 振り返ってみて、よく分からないことに、意味なんてあるはずがない。 […]

カテゴリー: Philosophy(哲学)

人間不平等起源論を読んで、「自由」について改めて考えてみた。

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SenKuSya代表の原田です。 ルソーの「人間不平等起源論」をよんで最近よく考えている「自由」について、自分なりの考えをまとめたいと思います。 [amazonjs asin="B00H6XBKEO" locale="JP" title="人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)"] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 自由とは何だろう 自由とはそもそも何なのか。自由であるということはどういうことなのか。 逆に、まず不自由な状態というのを考えてみる。 不自由な状態というのは、何かに依存して、自分一人で決断ができない状態ではないだろうか。 例えば、刑務所にいるとき。 実際に体験したことはないから、「ショーシャンクの空に」や「プリズンブレイク」を見たところからの想像でしか無いが、 刑務所に入っている状態では、好きなものを食べることも、好きな様に生活することも出来ないはず。 不自由な状態で、一番分かりやすいのはそういう状態だろう。 じゃあ、次に、不自由ではないけど、自由でもない状態というのを考えてみる。 多くの人はこの「不自由じゃないが、自由でもない状態」に当てはまるんじゃないか。 例えば、会社や学校。 そこには、必ずそれぞれルールが存在する。そして、それは殆どの場合において、自分自身で作ったものではない。 ルールは必ず遵守しないといけないというわけではなく、嫌になれば、勝手に出ていったってかまわない。 だけど、何となく、そこのルールに従う。ルールの中で色々と試行錯誤する。 自分にとっての自由 最後に、自由な状態について考えてみる。 最近、「自由に生きる」とか「好きなことだけして生きる」みたいな、謳い文句が流行っているが、彼らの根底にある考え方は一体なんだろう。 僕が想像するに、それはお金ではないだろうかと思ってる。彼らは、お金があれば、一応満足するんじゃないだろうか。 お金かあ。 たしかに、お金があれば、自由になるのかもしれない。働く必要もないし、好きなところに住んで、好きな生活を送れるのかもしれない。 いま、何か嫌なことをやらなければいけない生活だとしたら、嫌なことをやらなくてもよく、誰からも何も強制されることはない。そういう意味では。。。自由なのか。 いや、しかし、自由ってのは本当にそういうことか。 うーん。いや多分、彼らにとっての自由ってのはそういうことだ。 「自由」が欲しいんじゃなくて、「お金」が欲しいって、多分、そういうことだろう。 じゃあ、自分はどうなんだろうか。 お金が欲しいのか。。。。いや、別に生活するだけのお金があれば、構わないかな。 それじゃあ、自分にとっての自由とは? ….「何でも出来る」ってことだろうな。

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タイタンの妖女を情熱的に感想・レビュー。SFという形式を借りた、”優しい”哲学書に出会いました。

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 今日は、僕が今まで読んだ、文学の中で、一番長かった、タイタンの妖女について、語りたいと思います。これはアメリカのカート・ヴォネガット・ジュニアという作家が、書いた本なんですけど、この本の長さといったら、もうたまらないんですが、しかし、内容がとても面白いので、退屈するようなことは、ありませんね。 [amazonjs asin="4150117004" locale="JP" title="タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)"] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 爆笑問題 太田光が超絶オススメ もともと、僕がこれを読んだきっかけと言うのは、僕は、芸人の爆笑問題の太田光さんが、とてつもなく好きなんですね。漫才が好きというよりも、彼の生き方、考え方、思考の深さ、みたいなところを、尊敬してるんですけど、彼は、昔から、物凄く本を読むらしいんですね。 だから、僕も真似して、彼がオススメしてる本ってのは、結構読んでるんですけど、その中でも、このタイタンの妖女は、自分の読書の中で、最高傑作だと行ってるんですよ。太宰治とか、宮沢賢治とか、ジョン・アーヴィングとか、サリンジャーとか、世界中のいろいろな作家の本を読んでいて、この中にも感動する作品は、たくさんあるのに、それでもなお、これが一番だって、言い切ってるんですよ。そしたら、これを読まないわけには、いかないだろうと、そう思って、読み始めました。彼の事務所は、タイタンってところなんですけど、これもこの、タイタンの妖女から、取ってきたらしいので、より一層、気になった次第です。 タイタンの妖女って、どんな話? それでは、早速タイタンの妖女の内容に入っていきたいと思います。内容を簡潔に説明すると、以下のとおりです。 時空を超えた、あらゆる時と場所に、波動現象として存在する、ウィンストン・ナイルズ・ラムファードは、神のような力を使って、さまざまな計画を実行し、人類を導いていた。その計画で操られる、最大の受難者が、全米一の大富豪、マラカイ・コンスタントだった。富も記憶も奪われ、地球から火星、水星へと、太陽系を流浪させられるコンスタントの行く末と、人類の究極の運命とは?巨匠がシニカルかつユーモラスに描いた感動作。 まあ、この説明だけで、想像できる人は、かなりの強者です。 もう少し具体的に説明すると、ウィンストン・ナイルズ・ラムファードという人物が、ある時、宇宙のブラックホールみたいなところに、飛び込むんですね。そしたら、神のような力を、手にするわけです。宇宙をまたいで、あらゆる場所に出現することが出来て、未来を予知することが出来るという、そんな力をですね。 そこで、主人公である、マラカイ・コンスタントという人物がいるんですが、この人は、もう親が稼いだ金で、全米一の大富豪なんですが、めちゃくちゃしてるわけですよ。特に、才能に優れているわけでも無いんですが、とにかく、運が良いんですね。運のよさだけで、カネを稼いでるわけなので、めちゃくちゃ傲慢なんです。そのコンスタントが、ラムファードの予知によると、地球を救うのに、欠かせない存在だとなるわけです。 それで、まあ、結論から言うと、このコンスタントは、ラムファードの予知に、一ミリも逆らえないんですね。全てがラムファードの予知通りに進むってわけです。 それで、地球での記憶を全て、奪われ、火星に飛ばされたり、水星に飛ばされたり、最後に、土星の衛星であるタイタンという星に飛ばされるわけなんです。 この本をとおして、ヴォネガットが伝えたかった、メッセージとは? 地球から、タイタンに飛ぶまでの経緯は、是非とも自分の目で確かめてほしいので、このブログでは、じゃあ、この作家が伝えたかったメッセージは何なの?、という結論だけ、述べたいと思います。 この小説では、宇宙が誕生した理由、地球が誕生した理由、人類が繁栄した理由、ウィンストン・ナイルズ・ラムファードが神のような力を手にした理由、そして、マラカイ・コンスタントが、こんなに宇宙を放浪して、最終的にタイタンに到着した理由を、たったひ一つの理由で、片付けてしまいます。 それで、その、これまで人類が繁栄してきた理由ってのは、タイタンに不時着した、どこかの星から来た宇宙人の、乗ってきた宇宙船の、故障した部品を届けるためだったってオチです。 え、それだけ?僕たちが生きてきた理由って、たったそれだけ?ってことが、この長い物語のミソなんです。 つまり、作家のヴォネガットが伝えたかったのは、人間の生きてる意味なんて、大したことじゃないよってことです。そして、意味なんかあってもなくても、自分が考えたこと、経験したこと、感動したことは、偽りのない本物だろってことです。だから、安心して生きて良いんだよってのを、このヴォネガットは、この物語を通じて教えてくれるんですね。 そういうわけで、この物語は、哲学的な問いのようなモノを、すごく優しく解決してくれるんですね。そういう意味で、僕は大好きな小説です。いまは、量子力学の世界から、いまのこの世界、現実は、実は、誰かが作ったシュミレーションゲームのようなもので、仮想現実なんじゃないかって説も、あるじゃないですか。 だから、どうしたってわけです。仮に、仮想現実だとしたら、生きてる意味がなくなるってのか。そういうわけじゃないんですね。どういう意図で、自分がここに存在しているのか、まあ、そういうことは関係ないんですね。 勿論、それを専門的に調べる人たちも沢山いますが、そういうことは、それを調べたい人に任せて、僕たちは、意味とか意図とか、そんなんじゃなくて、純粋に、やりたいことをやって、生きていこうよ、もし、何か、意図があるのだとしたら、それは絶対的なものだから、僕たちが、どうこうやって、生きたって、結果は変わらない。だから、自分の、生の、本当の、経験や、感動、情熱ってのを、大切にして、歩んでいこうよって、思いました。 僕の感想としては、ここで終わりなんですが、この物語には、こころ打つ名言が、たくさん紹介されていたので、それを紹介したいと思います。 タイタンの妖女の中に、散らばる名言集 はじめて真実の愛を知るときを、たのしみに待ちたまえ、ビー。貴族性の外面的な証拠をなにひとつ持たずに、貴族らしく振舞うときをたのしみに待ちたまえ。きみが神から授かった威厳と知性と優しさ以外になにも持たなくなるときを、たのしみに待ちたまえ──それらの材料だけで、ほかのいっさいを使わずに、すばらしく美しいなにかを作りあげるときを、たのしみに待ちたまえ わしがランサム・K・ファーンにもしおまえのツキが落ちたらこの手紙をわたしてやってくれとたのんだわけはだれしもツキがあるうちはなにも考えんしなにも気がつかんからだ。そんなことする必要がどこにある?    だからせがれよ、わしにかわってまわりを見まわしておくれ。もしおまえが無一文でだれかがとっぴょうしもない相談をもちかけてきたとしたらわしはその話に乗れと忠告するよ。なにかをまなぼうという気になったらおまえはなにかをまなべるかもしれん。たった一つわしがこれまでにまなんだことはこの世には運のいい人間と運のわるい人間とがいてそのわけはハーヴァード・ビジネス・スクールの卒業生にもわからんということだ  新しく興味ある惑星を見る機会と、あなたの故郷の惑星を新しく美しい客観的な角度から見る機会を、さしあげたいので 善が、悪ほどたびたび勝利をあげることができないという理由は、どこにもない。勝利はすべて組織力の問題だ。もし、天使というようなものが存在するなら、せめてマフィア程度の組織力は持ってもらいたい 「あきれたもんだぜ、相棒」と彼は声に出していった。「おれたち、こんな宇宙の真ん中でなにしてるんだ? こんな服着てなにしてるんだ? このばかげたしろものの舵をとってるなあ、だれなんだ? なんでおれたちゃ、このブリキ缶に乗りこんだんだ? なんでおれたちゃ、むこうへ着いたらだれかを鉄砲で撃たなきゃならないんだ? なんで相手はおれたちを撃ちにくるんだ? なんでだよ?」とボアズはいった。「相棒、なんでだか教えてくれ 「おまえはおれに大ニュースを知らせにきた」とボアズはいった。「『ボアズ、おれたちは自由になれるぞ!』とおまえはいった。それでおれは興奮しちまって、自分のやってたことをおっぽりだし、自由になろうとした。  それからおれは、自由になるんだぞと自分にいいきかせた。そして、それがどんなことなのか考えてみた。おれの見えるのは人間どもだけだった。やつらはおれをこっちへ押しこんだり、あっちへ押しのけたりする──そして、なにをやっても気にくわず、なにをやっても幸せになれないもんだから、よけいにカッカする。それからこんどは、おれがやつらを幸せにしなかったのをブツクサいいだし、また押しあいへしあいをやらかすんだ レッドワインの会衆が、べつに風変わりなわけではない。べつに狂信者ぞろいというわけではない。地球には、みずからにハンディキャップを課して、しかも幸福でいる人間が、文字どおり何十億といるのだ。  なにが彼らをそんなに幸福にしたかというと、もう他人の弱点につけこむ人間がだれもいなくなったからである ラムファードは、宇宙のさすらいびとの気持ちを読みとった。「連中は、これがあべこべでも、やはりおなじように喜ぶんだよ」 「あべこべ?」宇宙のさすらいびとは聞きかえした。 「もし大きな報酬が先で、大きな苦しみがそのあとにきても、さ」ラムファードはいった。「彼らが好きなのは、その対照なんだ。事件の順序はどっちだって気にしない。つまり、どんでん返しのスリル── きみがこれまでの人生でやった善いことを、たったひとつでいいから話してみたまえ──思いだせる範囲で むかしむかし、トラルファマドール星には、機械とはまったくちがった生物が住んでいた。彼らは信頼性がなかった。能率的でもなかった。予測がつかなかった。耐久力もなかった。おまけにこの哀れな生物たちは、存在するものすべてなんらかの目的を持たねばならず、またある種の目的はほかの目的よりもっと高尚だという観念にとりつかれていた。この生物は、彼らの目的がいったいなんであるかを見出そうとする試みで、ほとんどの時間を費していた。そして、これこそは彼らの目的であると思われるものを見出すたびに、その目的のあまりの低級さにすっかり自己嫌悪と羞恥におちいるのが常だった。そこで、そんな低級な目的に奉仕するよりはと、生物たちは一つの機械をこしらえ、それに奉仕を代行させることにした。これで、生物たちには、もっと高級な目的に奉仕する暇ができた。しかし、いくら前より高級な目的を見つけても、彼らはその目的の高級さになかなか満足できないのだった。そこで、より高級なかずかずの目的に奉仕するよう、かずかずの機械が作られた。そして、これらの機械はあらゆることをみごとにやってのけたので、とうとう生物たちの最高の目的がなんであるかを見つける仕事を仰せつかることになった。機械たちは、生物たちがなにかの目的を持っているとはとうてい考えられないという結論を、ありのままに報告した。それを聞いて、生物たちはおたがいの殺し合いをはじめた。彼らは目的のないものをなによりも憎んでいたからである。やがて彼らは、自分たちが殺し合いさえもあまり巧くないことに気づいた。そこで、その仕事も機械たちにまかせることにした。そして機械たちは、〈トラルファマドール〉というのに要するよりも短い時間で、その仕事をやりおえてしまった 「なにが起こっても、どんなに美しい、それとも悲しい、それともうれしい、それとも恐ろしいことが起こっても」と、マラカイ・コンスタントはタイタンで家族に告げた。「おれはもうぜったいに反応しない。だれかが、それともなにかが、おれをある特別な方向へ行動させたがっているらしいとわかったとたんに、おれはてこでも動かなくなってやる」彼は土星の環を見あげ、口もとを歪めた。「なんとまあ絶景じゃないか」彼はぺっと地面に唾を吐いた。 「もし、なにかとんでもない計画におれを使おうと考えているやつがいたら、そいつはその時になってがっかりしないことだな。この彫刻のどれかを思うように動かすほうが、よっぽど楽だろうから」  彼はまた唾を吐いた。 「おれに関するかぎり、この宇宙はなにもかもバカ高い値段のついたゴミ捨て場だ。おれはバーゲン品を探してゴミ山をひっかき回すのにあきあきした。いわゆるバーゲン品というやつにかぎって、細いワイヤで花束爆弾につながってやがるんだ」彼は三たび唾を吐いた 「機械だって?」とサロはいった。たどたどしい口調で、コンスタントやビアトリスやクロノより、むしろ自分に聞かせるように。「たしかにわたしは機械だ、そしてわたしの種族も」とサロはいった。「わたしは設計され、制作された。わたしを信頼できるものに、能率のいいものに、予測できるものに、耐久力のあるものにするためには、どんな経費も技術も惜しみなくつぎこまれた。わたしは、わたしの種族の作りうる最高の機械だった」  サロは自問した。「そのわたしは、どれほどすぐれた機械であるかを立証したろうか?」  サロはいった。「信頼性? わたしは目的地へ着くまでメッセージを開かないだろう、と信頼されていた。だが、いまわたしはその封を破ってしまった」  サロはいった。「能率性? この宇宙で最大の親友を失ったいま、わたしは枯葉の上をまたぐのにも、これまでラムファード山を越えるのに使った以上のエネルギーを要するようになった」 […]

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桐島部活やめるってよを情熱的に感想・レビュー。人生の意味を問い続けると、最後は自己実現に落ち着く。

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 今週は、先日ふと何気なく見た映画「桐島、部活やめるってよ」が最高すぎて、深すぎて、この素晴らしさをぜひとも共有したい、と思ったので、この映画ついて語っていきたいと思います。 [amazonjs asin="B00ANFT8R8" locale="JP" title="桐島、部活やめるってよ (本編BD+特典DVD 2枚組) Blu-ray"] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ [youtube "https://www.youtube-nocookie.com/embed/cWcvBV3-ee4"] 見たことあるけど、よく分からなかったって感想が多い この映画を実際に見たことあるけど、結局何がいいたかったのか、何がしたかったのか良く分からなかった。そういう人はたくさんいると思います。それはなぜかって言うと、この映画は登場人物が心情を何も発言してくれないんですね。だけど、それこそが、この映画にリアリティを生み出している根源なんです。 例えば、東出くん演じる、人生に迷う菊池という高校生が出てくるんですが、「おれは、どういうふうに生きたらいいか分からなくなってる」とか、「おれは実際空っぽなんだ」とか、一切言わないんですね。 よく青春ドラマでは、「俺はこの試合に人生かけてるんだ」とか平気で入れますけど、あれは観客に分かりやすくするために入れてるだけなんですよね。実際そんなこと言う人なんて見たこと無いし、実際いたら、青春ドラマかお前は!、漫画の読みすぎだ!、とツッコまれてると思います。 だから、この映画では一切言いません。実際の人生では、そんなこと言わないんで、よりリアリティを持たせるために、全てカットしてます。それが、この映画の理解を難しくしてるんですが、それだからこそ、裏に秘められている真意とかメッセージ性は大きいんです。 いきなりだけど、桐島くんとは? まず、簡単にストーリーを話すと、この映画ってのは、桐島くんという、勉強が出来て、スポーツも出来て、女の子にもモテるという、完璧な高校生が、突然部活を辞めるってことになって、それが学校中で大騒ぎになるって話なんですけど、結論から言うと、この桐島くんってのは、最後まで一切出てこないんですね。 桐島は出てこないけど、桐島がいなくなることで、皆が大騒ぎになるっていう映画なんですけど、じゃあ、その桐島ってやつはこの映画で何を表してるかって言うと、高校生の象徴みたいなもんなんです。高校生が目指すべき像、そういうものを描いていて、それが急にいなくなった時に、どうすればいいか分からなくなる人ってのを描いているんです。 ですが、これは何も、高校生活だけにとどまらず、一般的な社会で言うと、社長が突然辞めるとか、天皇が突然いなくなっちゃうとか、そうなることで、その社会に属しているものってのは、大概パニックになっちゃうよ、っていう、そういう普遍的なことを描いているんですね。 生きる意味が分からなくなる高校生 そして、この映画の主人公は、小説は、東出昌大演じる菊池くんなんですが、映画では、神木隆之介演じる映画部の前田くんに、焦点が多く当てられてる気がしますね。 それで、この東出くんなんですが、彼も、桐島と似たような感じで、スポーツは万能で、勉強もできて、彼女もいてって言う、万能型の人間なんですが、彼は、全てが出来てしまうがゆえに、俺が本当にやりたいことはなんなのかってことを見失ってしまってるんです。高校生活だけじゃなくって自分の人生にも意味が見えなくなって、何のために生きるのかがよく分からなくなってるんです。 野球部でエースなんですけど、じゃあ上手く野球をやってたとして自分にとって何なのか、よくわからなくなっています。彼女もいますけども、彼女との恋愛も楽しくないんですね。 東出くんにしてみれば、もう野球とか恋愛とか、それら含めた全てに意味が無いことに気づいてるんですよ。勉強についてもそうで、勉強していい大学に行って、いい会社に入って、給料沢山もらって、お金をもらって、いい嫁さんもらって、じゃあ一体それが何なのかと、それ自体に意味が分からなくなってしまっているわけですよ。そんなことして一体なんになるんだという感じになってるんです。 劇中の中で、ある人物が、バスケ部を見て、「どうせ私たちは負けてしまうのに、負けるってわかっているのに何で頑張っているのかしら。」っていうセリフが出てきますけども、これはまさに人生そのものなんです。人生とは、どうせどんなに頑張ったって、どんなに金持ちになったって、どうせ死ぬんですよね。何もかも消えてなくなるんだったら、何のために生きてるんだろうってことを、問うてるわけです。 金持ちになって、すごく最高な暮らしをして、じゃあそれに何の意味があるのか、どうせ死んじゃうじゃないのか、ってとこまで考えさせる映画なんです。 神がいなくなっても全くぶれない3人 ここで、桐島くんがいなくなっても全くぶれない人が3人出て来ます。 一人は野球部のキャプテンです。野球部のキャプテンは、何でいつまでも引退しないのって聞かれて、「いや、ドラフトが来るまではね。ドラフトが来るまでは頑張るよ。」って言うんです。いや、来るわけねえだろ、馬鹿じゃねのかって、周りの人は感じると思うんですよ。 しかし、このキャプテンが演じているのは、他の神を待つ信仰者なんですね。つまりこのキャプテンっていうのは、来るわけもないドラフトっていうのを待ち続けて、それのために生きているんです。いわば、来るわけもない神様を信じている人ですね。絶対に来ないものを、来るわけのないものを待って、それで生きていける人です。 しかし、これも、絶対にかなわないってことを身に染みた時、どうするかっていう問題をはらんでいます。このキャプテン自身には、自分の信じる神がいるから、他の神(桐島くん)がどうなろうと、関係ないんですが、自分の神がいなくなった時は、同じように、パニックになるので、根本的な解決にはなってないというわけです。 そして、他にぶれないのが二人いて、それが映画部の神木くんと、吹奏楽部のキャプテンです。この二人は何故ぶれないか、これは、やりたいことを見つけているからなんです。 社会のシステムとか、金儲けであるとか、出世であるとか、学歴であるとか、そういったものは関係ないんですね。好きなものが見つかっている人には、やるべきことがわかっている人には。別にそんなフィクションとか関係ないんですね。システムとか嘘っぱちなことは関係ないんですね。 そして、この二人は、どちらも失恋するんですが、その失恋した想いっていうものをそれぞれの打ち込んでいる芸術に昇華させていきます。どちらも自己実現という形にするんです。 意味なんて、考えてない そして、最後、生きる意味を失ってしまった東出くんと、神木くんが屋上で出会います。その時、東出くんがでカメラを触らせてくれないかと言います。それは、自分は生きる意味がわからなくって辛いのに、なんで神木くんはカメラを持って楽しそうにしてるんだろうと、このカメラに特別な力があるんじゃないかっていう感じで、思うからです。ここには、自分がまだ気づいていない、生きる意味が隠されてるんじゃないかと思ってるわけです。 そして、そのカメラを通して、東出くんは神木くんに質問するわけです。 何で映画とってるの?映画監督になりたいの?女優と結婚したいの?アカデミー賞が欲しいの? これは何を聞いてるのかというと、結果として望んでいるものは?目的は?目標は?意味は?ってことを。本質的には聞いてるんです。 そしたら神木くんは照れながら、 「いやー、映画撮っていると、好きな映画とつながっているような気がして」としか答えないんです。 意味とか、結果とか、目標とか考えたことなくて、ただ好きでやってるんだ、って言ってるんです。 え、たったそれだけって感じです。ですが、ここが大逆転の瞬間なんです。 どういうことかって言うと、東出くんは全てにおいて完璧で勝利者でした。なんでも持っていました。だけど、たった一つ持っていなかった。それは意味や目的だったんです。しかし、神木くんは、意味とか関係ないし、やりたいことがあるからやってるとだけだと答えて、それによって、神木くんは、すべてを持っている東出くんに勝ったんです。 この映画が伝えたかったとこは、好きなことやってるやつが勝ち それで、この映画が伝えたかったことは、好きなことやってるやつは勝ちだってことです。それで上手くいかなくたって別にいい、好きなことをやってるんだから。なんか結果がければ、なんか意味がなければと思っているから、勝ち負けってのが出てくるってわけです。 哲学とか、生きる意味とか、そんなものを追求した時に、じゃあ自分って結局何すればいいんだっけと言うのに、必ずぶち当たると思うんですけど、その時の解決策ってのは、結局、自己実現なんですね。自分の考えを本にしたり、作品にしたり、何か形にしてみんなに伝えるっていうそういうことに落ち着くと思うんです。 そういうことを、改めて考えさせられた映画ということで、これを皆さんに伝えたかったというわけです。 自分はどちら側の人間? この映画を見て、へえ、そうなんだで終わりじゃないんですね。そんなもので終わる映画じゃなくて、じゃあお前はどっちだって言うのを、考えるべきものだと思うんです。 僕は、どうかって言うと、何も価値を求めず、好きなことだけを追求するってのはまだ無理です。そんな境地には達していません。 しかし、やり方は自分で決めさせろよって思ってます。そういう意味では、神木くんによりかもしれません。 ただの自己実現で終わらせるのではなく、しっかりと結果を出したいという気持ちはあるものの、そこまでの過程は自由に選べるだろって思ってます。さっき出てきましたけど、社会のシステムとか、金儲けであるとか、出世であるとか、学歴であるとか、そういったものは関係ないと思ってます。自分が好きで、やりたいものが見つかってるなら、そんな、他の人が決めたシステムとかは、自分にとっては嘘やデタラメと同じで関係ないんですね。 […]

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天才が抱える悩みって、意外と普遍的だけど、自己完結能力が、やっぱり凄いなあと感じる(プロゲーマー梅原大吾の講演を聞いて)

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 今回は、先週に引き続き、梅原大吾さんの講演について語りたいと思います。 前回のブログをまだ見てない人はこちらです。 今年一番感動した、天才による、凡人でもすんなり納得のいく講演(プロゲーマー梅原大吾の講演を聞いて) 梅原大吾の経歴 簡単に彼の経歴を説明すると、 幼少期から格闘ゲームにハマる 介護の仕事を始める 再度、格闘ゲームにハマる 世界大会で優勝して、スポンサーが付き、晴れてプロゲーマーになる プロゲーマーという肩書の義務感から、ゲームをひたすらやり込むが、途中でどうしようもないくらい嫌になる 自分が飽きない努力を模索する またゲーム界で強くなる 自分の生き方や考え方を確立する というような感じです。 この梅原さんの講演を聞くと、圧倒的に普通の道とかけ離れてるんですね。そして、何度も苦悩しています。 単に順風満帆に生きてきた人じゃない、だからこそ、自分は講演を聞いて感動したのかもしれません。 仮に、自分がゲームが達人並みに上手かったとして、その時、「ゲームの世界で生きていく、プロゲーマーとして生きていく」、なんて決断を出来る人が一体どれだけいるでしょうか。 プロゲーマーとして生活してる人は誰もいない、先が全く見えない、失敗した時に何も残らないかもしれない、そういう道を選べる人って、やっぱり凄いなあと感じます。 又吉直樹の「火花」を読んだ時も、同じようなことが書かれていて、芸人って凄いなあと感じたんですが、やっぱりそういう、全てなげうってでも、自分のやりたいことを貫ける人って、かっこいいよなあと思ってます。 自分で考える能力の高さ この講演で、梅原さんが伝えたかったことと、僕が勝手に感動したことは、結構違いそうな気もします。 題名が「一日ひとつだけ強くなる」ですので、自分が日々成長するためには、的な部分を伝えたかったかもしれませんが、やはりどうしても、決断力の凄さや、自己完結能力の高さに、僕は魅入ってしまいます。 梅原さんは、自分が苦悩した時、詰まった時に、なんだかんだ全て自分で解決しているんですよ。自分の中で思いを反芻して、自分の中で答えを見つけるという、そういうところが一番凄いんですね。 僕も、悩んだ時や詰まった時は、全て自分で解決する人なんですが、そういうタイプって結構少ないんじゃないかって思ってます。誰かに相談して解決していく方と、自分自身で全て解決していく方の、どちらが優れているとか、そういう話ではありませんが、僕個人としては、誰かを頼ってしまったら、楽かもしれないけど、その分、振り回されるよなって思ってます。 誰かに教えてもらったほうが、早いかもしれませんが、誰かに委ねてしまうのって凄く怖いって僕は感じるんですよね。特定の誰か、じゃなくても、例えば世間とか、そういう抽象的なものにもですね。自分がやりたいこと、自分が思ってることってのは、自分自身が一番分かっているはずなのになって思います。まあ勿論「自分のやり方で、おれはやってやるんだ!」って言う代わりに、結果を残さなければ「ほら、だから言わんこっちゃない」と言われるってのは、覚悟しておくべきなんですが。 その分自分の思い通りにやるってのは、自分が一番、楽しめるって思います。世間的な評価ってのは、結果を残せば、勝手についてきます。その時は、多分、王道のやり方よりも、我流でやってたほうが「あいつは凄い!」って評価されるんですね。だから、自分がやりたいと思ったら、それを突き進んだほうが、成功した時は、評価は高まるし、失敗しても、後悔の念はなくなるので、個人的にはそれしか無いって思ってます。 梅原さんのぐっときた言葉 ちょっと梅原さんの話からそれましたが、講演で梅原さんが言っていて、気に入った部分だけ箇条書きでまとめてみました。 介護の仕事をしていた時 介護の仕事についていた時、仕事は全然出来る方ではなかったが、格闘ゲームという勝負中毒に勝てた気がした。 なりたい職業はなかった、世の中の職業が少なすぎると思っていた、焦っていた。 プロゲーマーのオファーが来た時 ゲームをやってて何になるんだと言われていた自分が、報われた気がした。 プロゲーマーという職業につくか一般の仕事で生きていくか迷った、たとえ、プロゲーマーに挑戦して失敗しても後悔しない気がする、プロゲーマーという勝負の世界から逃げて、安定した職業に就いたとして、旗からどう見られているかは分からないが、自分の中で、あの時挑戦していたらどうなっていたのかと、ずっと感じるだろうなと思った。 ゲームに全てを捧げて生きてきた人間が、ゲームをやめるということは、自分の短所に目を向けた生き方をしていた。 やりがいのある仕事をしている人達を見て、羨ましいなあ、自分にもそういう仕事があったら良いなあと思ってた、無駄になるかどうかなんて関係ない、自分はやりたいことを仕事として出来ているんだから。 プロゲーマーになり、自分の臨んだ職業だから、体に無理をして1日18時間プレイしてた時 レバーを触ると気持ち悪い、画面を見ると吐き気がする。 18時間もやるのは誰のためか、自己満足だった。そこから、勝率を上げるやり方に変えてきた、自分に望まれているのは、長時間プレイすることではなく、勝つことだから。 継続して勝つには、継続して努力をするが、体を壊してまでの努力じゃない、自分をあきさせないことが重要だ、今更格闘ゲームで新鮮さは味わうことはない。飽きる時は、成長しない自分に飽きるんだ、成長さえ実感できれば努力は継続できる。しかし、やればやるだけ、成長スピードが遅くなる。だから、発見を毎日メモする、そうすると昨日の自分の成長が実感できる。 意識的に変化する。 どんなに強くても、飽きたら、周りに追いつかれる 新しいやり方を試して、勝率が落ちても、変化させていれば未来への投資になる。 今の仕事で、10あるうちの10変化させちゃいけないものはない。それなら、やり方が固定化して、競争なんてなくなるから(だけど、現に競争はある) 1割変化させてみれば、新たな発見が得られる、それは成長としてカウントできる。 普段インタビューで話すことは、間違いないと確信していること、周りが必ず反応すること。 自分の人生に充実しているか、何の為に成長しているかわからないと楽しめない。 演じていない部分を皆の前で話すのは恐怖だった、地位が高くなればなるほど。 満足しているつもりでいたけど、実はつまらなかった。 自分であらゆることを決断しているか疑問に思った時 バージョンアップで自分のメインキャラが弱くなって、サブキャラが強くなっていた。 実は自分で決めていなかったことに気づいた、周りが大きくなっていて、それに合わせていただけだった、いつの間にか自分の基準がなくなっていた、自分の価値観で生きていたつもりだったけど、流されていた。 自分の姉は、いつも親から、付き合っている人がいても、その人より身分の高い人と付き合えるようにしとけと言われていた、姉もそれに従っていた。ある時、遂に、完璧な人が姉の前に現れたらしい。しかし、姉は違う人と付き合った、その人の方が、殆どステータスが低かったけど、話が面白かったらしい。それだけ?って思った。 全部持ってるというのは、人が決めた価値観、ちょっとだけ弱いキャラのほうが自分は面白い。 […]

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今年一番感動した、天才による、凡人でもすんなり納得のいく講演(プロゲーマー梅原大吾の講演を聞いて)

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 ちょっと最近忙しくて、ブログの更新が不定期なんですが、話したいこととかは日々沢山湧いてくるので、週一でブログは更新しようと思ってます。 今日は、前々からずっと紹介したかった、プロゲーマー梅原大吾さんの講演について語りたいなと思います。 ですが、この梅原さんの講演について語ろうとすると、伝えたいことが物凄く出てきて、これは、とても一回のブログの量じゃないなと思ったので、今週と来週とで2回に分けたいと思います。 それで、今回は前編ということなんですが、前編は梅原さんの講演を聞いて自分が感じたことを中心に、色々と述べていきたいと思います。 梅原さんの講演の内容については後半で詳しく語りたいと思います。 梅原大吾さんの講演を先に聞きたいという方は、下にリンクを張っておきますので、そこから見て頂ければと思います。 生き様を主とした講演 まず、この梅原さんの講演なんですが、約2時間あるんですね。 しかも、殆ど梅原さんが一人で話して、パワポなどは一切なし。 内容は、梅原さんの生き様と、その時々で感じたこと、考えたことを語っていくというものです。 僕は、この講演を聞いた時、あ、自分のやりたいサービスと一緒だ!って思いました。 僕が常々やりたいなと思っているサービスの一つに、この「生き様講演」というものが有ります。 僕は日頃興味がある人が出てきたら、その人はどういう事を考えて日々を過ごし、どういう風に生きてきたのかを知りたいと思って、伝記を読んだりすることがしょっちゅうあります。 ですが、伝記を読むっていうのはけっこうな作業量だと思っているんですね。 僕みたいな伝記マニアだったら読むかもしれませんが、一般の人はまずもって手にとることは少ないです。 しかし、そこには、自分の人生を手助けする経験談や、考えが書かれていることが多いんです。 素晴らしい功績を収めている人なんかは特にそうですね。 まあ、そこに書かれている内容を、別次元のことだと考えるのか、自分の人生に活かせると考えるのは、その人次第なんですが、後者にとっては、誰か素晴らしい功績を収めた人の生き様ってものは、必ず為になります。 だからこそ、その生き様を知る作業ってのをできるだけ簡単にしたいってのが僕の考えです。 そう考えた時に、一番効率的なのが、動画です。 動画で語ってもらえれば、聞き手は見るだけ、もしくは聞くだけで済む。 しかも所要時間は数時間で済む。 そして、何より当事者に語ってもらうことで、熱量が伝わりやすい。 もっと詳しく、知りたい人は、伝記を読めばいいって訳です。 こういった考えから、僕は、将来、僕の興味のある人にスポットライトを当てて、動画で生き様を話してもらって、それを色んな言語に訳して、世界中に届けたいなと思っていたんですが、何分、いま自分一人でできることじゃないなってことで、とりあえず、自分が出来ることから進めて、近いうちにそういった方たちと対等に交渉できるようにしたいなと思ってます。 前置きが長くなりましたが、こういう観点から、この梅原さんの講演ってのは、まさに自分がやりたいことそのものなんですね。 パワポに頼らない利点 あと、パワポを使ってない点がいいなって思います。 最近の講演だとパワポを使わないものなんて、殆ど無いんじゃないでしょうか。 しかし、僕はパワポは極力使わないほうがいいって思ってます。だから、自分のセミナーでもパワポは使っていません。 パワポは上手く使えば、大きな効果をもたらすと思っていますが、多くの人は、パワポに内容をまとめて、 実際に公演する時は、そのパワポを読み上げているってことが多いです。 それだと、誰がやっても一緒の講演になって、聞き手もパワポを追うのが中心になるので、講演者が主役のはずなのに、パワポに主役を取られることだってあります。 パワポってのは、図や写真などを見せるのであって、文言は殆ど一言でいいんです。 あのスティーブ・ジョブズでさえ、パワポよりもホワイトボードを好んで使っていました。 だから、どうしてもパワポを使わないといけないことなんて、あまりないと思っています。 セミナーのときなんかは、ホワイトボードがあればそれで済みますし、今までそんなに必要に迫られたことはないです。 パワポを使わないことで、聞き手はただ、講演者にのみ注意を向ければいいので、そこで上手く話ができてこそ、本物の講演者だって思ってます。 そういう意味でも、この梅原さんの講演は素晴らしいなと思います。 プロゲーマーという職業の葛藤 また、勿論のことですが、内容もとても良いです。彼じゃなきゃ語れないだろうという部分がほとんどです。 プロゲーマーという職業を選択するなんて、普通の人にはかなり難しい決断だと思います。 安定志向という風潮が強い中、先が見えない、どうなるかわからない、そういう職業を、「後悔したくない」という気持ちだけで、決断できるなんて、僕にはとてつもなく凄い人に思えました。 「無駄になるかどうかなんて関係ない。自分はやりたい仕事が出来ている。」 この言葉には、そうだよな、本当にやりたいことなら、リスクなんて考えなくていいよな、と関心しました。 プロゲーマーになってからの葛藤も、多く語られています。 プロゲーマーという自分の好きなことを仕事にできたがゆえに、好きな仕事なんだから、とことんやらなきゃ、という思いで、自分の体を酷使しすぎてしまったり、 やればやっただけ、当然成長スピードが遅くなるので、その時に自分を飽きさせない工夫を丹念に探したり、 プロゲーマーで知名度が上がって、今まで望んでいた色々なもの、地位や名声やお金、が手に入ったがゆえに、今の地位を保たないといけない、といつの日か考えるようになってしまっていたり、 そういう苦悩や葛藤が中心の講演なので、学べることは本当に沢山有ると思っています。 特に、自分に響いた言葉は、 「世間への復讐のチャンス」 「人に迷惑かけるなって言われていた。だが、周囲の期待に応えないってのは、誰かに迷惑をかけているのか。人の期待にはあなた達のやり方では応えない、自分のやり方で応える。」 「やらなきゃいけない事をどれだけやるか、やりたい事をどれだけやるかってのは、その人の環境次第で変わる。本当にやりたいなら折り合いをつけてる場合じゃない。」 […]

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取り敢えず、年の始めに抱負を立てておけば、一年間物凄く頑張れる気がする

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 お久しぶりです。約1ヶ月ぶりの投稿です。ありがたいことに、最近忙しくなりまして、ブログの更新は一旦置いといたという感じです。 それで、今日はですね、題名にもある通り、2017年の抱負を発表していきたいなと思います。通常、抱負っていうのは、1月1日とかその近辺で発表するものなんですが、今年の1月はですね、かなりバタバタしていて、一年の抱負を決めるにあたっての不確定要素が多かったので、このタイミングになった次第です。 ではでは、早速発表します。今年の抱負は3つです。 去年の抱負は4つでした。去年の分は下にリンク貼ってあるので、そちらを確認していただければなと思います。 http://senku-sya.com/2017/01/04/2016/ TOEIC 800点 まず1つ目は、TOEICのスコア800点です。 これは、去年に引き続きの目標ですね。ちなみに去年はTOEICを10回全て申し込んで、なんやかんやあって、実際に受験したのは8回とかだったかと思います。それで、スコアは595点ですね。ほぼ600点なんですが、参考までにどのくらいのレベルかというと、立命館の大学生の平均点が594点という情報がネットにあったので、およそそのくらいのレベルです。そして、800点というと、東京大学大学院文系の平均だそうです。ちなみに東京大学は、680点前後だったかと思います。 まあ、なんで800点を目指しているのかというと、楽天の入社条件がTOEIC 800なんですね。楽天に入りたいから800点取るぞ!というわけではなくて、あの大企業で求められているレベルがその点数だということは、そこのレベルが出来れば大体どこでも通用するだろうなって思ったからです。 そして、僕が英語を勉強する理由ってのは、将来アメリカのシリコンバレーで活躍したいなと思うからですね。まあ、そうじゃなくても例えば、最新の技術なんかは日本語訳されていなくて、英語でしか書かれていない!、なんてことがよくあるので、そういったときにも使えるので、出来るに越したことはないかなと思っています。 また、英語ってのは言葉なんで、使わなければすぐに忘れてしまうっていうのもあって、抱負に設定してます。 スーパーエンジニア 次に2つ目は、スーパーエンジニアになるってことです。 まず、何をもって、スーパーエンジニアと定義するのか、っていうのは非常に難しい問題ですね。こういうときは、絶対的にカウントできるものにした方がいいんですよね。 今までのように、アプリ作るとか、サイト作るとか、そういったことだと去年と変わらないなと思って、高いレベルの設定じゃない気がして、考えた結果、この一年で使いこなせるようになった技術をメモしといて、年末にそれを発表したいなと思います。その数が10個以上でかつ、それを聞いた人が、「おお、やるねえ」と思ってくれて、自分自身でも「うん、頑張ったな」と思えれば、抱負達成ということにしたいと思います。これが一番ハードなんじゃないかと、思ってますね。 やはり、自分としては、より早くスーパーエンジニアになりたいなと思ってて、相対的なもの、例えばあの人よりは出来るね、とか、この中では一番できるね、とかじゃなくて、絶対的なもの、どこに行っても通用するレベルの技術を身に着けたいというのがあります。その理由は、自分が好きなもので一番にならずにどうするんだっていうのと、やるからには、徹底的に追い求めたい最上思考みたいなのが有ります。 10万PV 最後に3つ目は、ブログ10万PVです。 いまは、1日で100いったりいかなかったりみたいな感じです。それで、このレベル感を簡単に説明しますと、初心者が目指すのは月間1万PVです。そして、プロが目指すのは100万PVです。このレベルだと、多分ブログで飯が食えると言った感じかなと思います。それで、僕が目指すのは10万PVです。 この理由は、1万は当然すぐにでも抜け出したいのですが、それが年間目標だと少し味気ないなと思っておりまして、ですが、ブログに人生かけてやってやるぜ!って感じではなくて、あくまでもこの一年人生かけるのはエンジニアですので、それだと100万は何かしらのビッグイベントが起きない限り達成できないかなと思っております。そういうことで、10万PVってわけです。 月間10万PVを達成するってことは、日常のブログ以外にも、セミナーの告知とかもブログで行っているので、当然セミナーに足を運んでくれる方も多くなってくるってわけです。そして、物理的に実現可能ラインと現実的に実現可能ラインとのギリギリのところにある数値なのかなと思って、こういう形で目標を設定しました。 最後に 最後に、皆さん抱負は立てておりますか?僕が抱負に掛ける思いってのは、単に達成できそうなものを立てるんじゃなくて、1年後に自分はこうなっていたい!こうなっていない自分なんて嫌だ!みたいな気持ちを込めて立てます。だから、何が何でも達成しようと日々の活動にも熱心的になるので、まだ立てていない人は、何かカウントできる目標を決めて、立てるのをおすすめします!!