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火花を情熱的に感想・レビュー。情熱的な生き方とはズバリこの事だと思った。

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どうもこんにちは、SenKuSya代表の原田です。 最近情熱に関して、思うところがたくさんあるなと思ったので、今日は情熱をテーマにした小説である、又吉直樹の「火花」について語っていきたいと思います。 「火花」については、以前も取り上げたことがありましたが(火花を読んで。理想を生きるということ。)、前回は基本的に動画で僕が話しているだけで、記事としては残っていなかったのと、その時の気持ちと今では、また気持ちが変わっているなと思ったので、今回改めて、記事としてきちんとまとめたいと思います。 [amazonjs asin="B01685OSEO" locale="JP" title="火花"] [adsense_tag] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 情熱を持って生きているか 自分の原動力はなんなのか。自分は何のために、エンジニアとして働いたり、ブログを書いたり、アプリを作ったり、文学を読んだりしているのか。 絶対に違うと言えることは、決してお金のためではないということだ。それが目的なら、もっと効率の良い手段はあるだろう。 何のためにやっているのかと問われれば、それが自分の心を果てし無く躍らせるからだ。 逆に言えば、今やっていることでも、今までずっと続けてきたことでも、それが自分の心を今までのように最高に踊らせなくなったと感じたのなら、いくら今までそこにお金と時間と努力を費やしてきたとしても、颯爽とやめるべきだと、僕は思っている。 だからこそ、自分が今やっていることについては、毎日毎日、その行動を起こす前に、一度、「本当にこれを、今自分はやるべきなのか?」という問いをかけるべきである。 たった一回そうじゃないと思っただけで、じゃあすぐにやめろとまでは言わないが、それが数回連続で続くようなら、間違いなくやめるべきである。 その問いをかけた時に、「今やるべき!」という結論が出たのなら、そこには、何かしらの情熱を持っているはずだ。少なくとも自分はそう思っている。 情熱というのは、やる気という意味でもあるが、それよりも僕は、それにかける想いや、自分がずっと信じている美徳や、言い表せないほどの熱い感情なんじゃないかと、最近思っている。 そういう情熱を自分は持っているのか?今ははっきりと持っていると答えることができる。 「情熱なんていらなくない? クールにスマートに行動した方がカッコよくない? 物事を冷静に客観的に判断できる人の方が凄くない? 情熱が一体どれだけのお金や名誉や地位をもたらしてくれるっていうの?」 そう思う人もいるかもしれない。金持ちで、偉い役職についていて、常に俯瞰的な立場から物事を言っている人の方が、凄い人物に思うかもしれない。 だけどそうじゃない。 前回、『サルトルの「嘔吐」を読んで考える、自分という存在への、意味の持たせ方』という記事をアップして、そこにも色々と書いたが、自分の人生に価値をもたらしてくれるものっていうのは、意外とそういうものじゃない。そういう、自分が死んだら、後に残らないものじゃない。 そういう、富や名誉や地位を求める欲求よりも、たった一つ比類なき情熱を注ぎ込める人の方が、圧倒的に強い。 圧倒的に強くて、圧倒的に良いものを後世に残せる。そして、圧倒的にカッコいい。 それはもう、誰が何と言おうと、間違いはない。逆に言えば、あらゆる状況において、それだけが唯一ぶれないものだ。 だけど、そういう果てしない情熱を持っている人が、身の回りにどれだけいるか。自分の友人、会社の同僚、先輩、兄弟、そういう人に聞いてみたらどうだろうか。物凄く少ないはずだ。 これを読んでいるあなたは一体どうでしょう。揺るぎない、情熱や哲学や美徳を持っていますか? 持っていないなら、是非、情熱を持っているということが、どれだけ素晴らしいことなのか、この「火花」という文学から感じ取ってほしい。持っている人なら、この「火花」という文学を読んで、それをこの先の人生でずっと信じられるように、自分の中で揺るぎのないものとして確立して言ってほしい。 それでは、前置きは長くなったが、「火花」から僕が感じたことを述べていきたいと思う。 笑いとは何か、人間とは何か、葛藤とは何か 売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。 「火花」という小説のストーリーは、端的に言うと、売れない芸人がどう生きていくか、というそこに焦点を当てた文学だ。 そこに描かれているのは、笑いとは何か、を深く追求する僕であり、 芸人を目指すという人生を選択した僕と神谷の二人であり、 自分の考え方や感じ方と全く違う世間からの評価であり、 圧倒的天才に置いてけぼりにされないよう、なんとか追いつこうとする、僕の葛藤である。 この文学を読み終えた時に、情熱に生きる人生というものは、こういうことなのかと、一つのモデルを深く体験できたような気になる。 ここには紛れもなく、一人の(現実よりも)濃い人生が詰まっている。 なので、このブログでは、最も印象に残ったセリフを三つに絞って、それに対する自分の考えも合わせて綴っていきたいと思う。印象に残った部分は他にもたくさんあるので、最後に全部まとめておきます。時間がある方は、是非そちらも読んでみてください。 不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった  出来ないのだ。神谷さんが、この漫才を面白くないと言うのなら、もう僕には出来ない。    僕は神谷さんとは違うのだ。僕は徹底的な異端にはなりきれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることも出来ない。噓を吐くことは男児としてみっともないからだ。知っている。そんな陳腐な自尊心こそみっともないなどという平凡な言葉は何度も聞いてきた。でも、無理なのだ。最近は独りよがりではなく、お客さんを楽しませることが出来るようになったと思っていた。妥協せずに、騙さずに、自分にも噓を吐かずに、これで神谷さんに褒められたら最高だと一人でにやついていた。昔よりも笑い声を沢山聞けるようになったから、神谷さんの笑い声も聞けるんじゃないかと思っていた。でも、全然駄目だった。日常の不甲斐ない僕はあんなにも神谷さんを笑わすことが出来るのに、舞台に立った僕で神谷さんは笑わない。    神谷さんが、何を見て、何を面白いと思っているのか、どうすれば神谷さんが笑ってくれるのか、そんなことばかり考えていた。美しい風景を台なしにすることこそが、笑いだと言うのなら、僕はそうするべきだと思った。それが芸人としての正しい道だと信じていた。    僕は本当に自分に噓を吐かなかっただろうか。    神谷さんは真正のあほんだらである。日々、意味のわからない阿呆陀羅経を、なぜか人を惹き付ける美声で唱えて、毎日少しのばら銭をいただき、その日暮らしで生きている。無駄なものを背負わない、そんな生き様に心底憧れて、憧れて、憧れ倒して生きてきた。    僕は面白い芸人になりたかった。僕が思う面白い芸人とは、どんな状況でも、どんな瞬間でも面白い芸人のことだ。神谷さんは僕と一緒にいる時はいつも面白かったし、一緒に舞台に立った時は、少なくとも、常に面白くあろうとした。神谷さんは、僕の面白いを体現してくれる人だった。神谷さんに憧れ、神谷さんの教えを守り、僕は神谷さんのように若い女性から支持されずとも、男が見て面白いと熱狂するような、そんな芸人になりたかった。言い訳をせず真正面から面白いことを追求する芸人になりたかった。不純物の混ざっていない、純正の面白いでありたかった。    神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている。それを楽しみながらやっているのだから手に負えない。自分の作り上げたものを、平気な顔して屁でも垂れながら、破壊する。その光景は清々しい。敵わない。 […]

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サルトル「嘔吐」を情熱的に感想・レビュー。自分自身の人生へ意味を持たせる為に、大事なこととは。

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SenKuSya代表の原田です。 今日は、最近読んで感銘を受けた、サルトルの「嘔吐」というフランス文学について、思ったことを記していきたいと思う。 [amazonjs asin="4409130315" locale="JP" title="嘔吐 新訳"] [adsense_tag] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 存在の意味について 例えば、道端に石ころが転がっていたとする。多分誰も気にも留めないだろう。 公園に行くと、大きな木が生えていた。大きな木が生えているなあということぐらいしか、思わない。 自分という人間がいる。よく分からないで生きてるけど、「生きている」ってことは、たしかに感じ取れる。 石ころや、大木と比べると、「存在」という観点では、私という人間の「存在」は価値が違うはずだ。 キリスト教の考えによると、人間というものは、神様が、自分と似せて造ったらしい。 だから、石ころや、大木と違って、人間が存在するのには、然るべき理由があるはずだ。だって、神様が作ったんだから。 いや、果たして本当にそうだろうか。 人類の起源は、猿から進化したとか、色々あるし、本当に、自分という存在の意味は、石ころや大木より、勝った特別なものなのか。 多分違う。石ころや、大木と何ら変わらない、たまたま、偶然、今という時間に、ここに存在するだけだ。 存在するということに、特別な意味はない。ただ、そこにあるだけ。それだけだ。 「嘔吐」の導入部分は、ざっくり言うと、こんな感じだった。 カート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」では 存在している意味について。 自分でもいろいろ考えてみたし、様々な本を通して学んだことも沢山有る。 以前紹介したが、アメリカ文学の、カート・ヴォネガット・ジュニアが書いた「タイタンの妖女」では、 人間が生きる意味、存在している意味は、大したことじゃない。 そもそも、意味なんか必要ない。 意味なんか無くたって、自分が考えたこと、経験したこと、感動したことは、偽りのない、本当のことだろ? それだけが、この世で、唯一信じられることだろ? だから、安心して生きて良いんだよ、 と書いてあった。 タイタンの妖女を読んで。SFという形式を借りた、”優しい”哲学書に出会いました。 生きる意味を、考えずに生きる。たしかに、そういう手もある。 生きる意味なんて、そんな小難しいことを考えるのは、哲学者に任せて、自分は自分の思うように生きる。 生きる意味について、真剣に考えてる人なんて、ごく少数だろう。僕自身、この溢れんばかり人がいる東京で、そんなこと考えてる人とは、たった数人しか出会ったことがない。 だけど、僕は、ここを考えるのは、とてつもなく重要な事だと感じている。 以前考えていた生きる意味 以前の僕は、自分が生きる意味は、「この世界に、自分が生きていたという、爪痕を残すため」と思って生きていた。 だから、世界中で使われるサービスを、自分自身で生み出したかったし、自分が世界に何か、どでかいインパクトを与えたいと思っていた。 世界に爪痕を残せなければ、自分という存在は、自分が生きていたという証明は、自分の身近な数人にしか共有できないことだと思っていた。 しかし、どうやらそれは間違っていたようだ。 事実は、「自分の身近な人にすら残せない。いや、自分自身にすら残らない。」ということだった。 それが、この、サルトルの「嘔吐」という本を読んでの、一番の気付きだ。 自分は、今たしかに生きている。間違いない。 そして、自分は、今、色々なことを考えている。 エンジニアとして習得したいスキル、やってみたいサービス、訪れてみたい国、読んでみたい文学作品、太宰治について、ロックバンドカッコイイなあ、その他もろもろ。 今、僕がそういうことを考えている、ということも紛れもなく真実だ。 しかし、それは、現時点での真実でしかない。 2週間前、僕は、一体何を考えていたのか。何をしていたのか。 そんなことは、最早、僕自身ですら分からない。 多分、こう考えていたんだろう、こういう仕事をしていた、っというのは分かる。 だけど、これは真実ではない。 そして、こんな記憶も、1ヶ月も経てば、また変わっているだろう。 僕は、その時点では存在していたんだろうが、時が経った今、振り返ってみると、よく分からない。 振り返ってみて、よく分からないことに、意味なんてあるはずがない。 […]

カテゴリー: Philosophy(哲学)

人間不平等起源論を読んで、「自由」について改めて考えてみた。

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SenKuSya代表の原田です。 ルソーの「人間不平等起源論」をよんで最近よく考えている「自由」について、自分なりの考えをまとめたいと思います。 [amazonjs asin="B00H6XBKEO" locale="JP" title="人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)"] ラジオ感覚で聞きたい方は、動画でどうぞ 後ほど追加します。 自由とは何だろう 自由とはそもそも何なのか。自由であるということはどういうことなのか。 逆に、まず不自由な状態というのを考えてみる。 不自由な状態というのは、何かに依存して、自分一人で決断ができない状態ではないだろうか。 例えば、刑務所にいるとき。 実際に体験したことはないから、「ショーシャンクの空に」や「プリズンブレイク」を見たところからの想像でしか無いが、 刑務所に入っている状態では、好きなものを食べることも、好きな様に生活することも出来ないはず。 不自由な状態で、一番分かりやすいのはそういう状態だろう。 じゃあ、次に、不自由ではないけど、自由でもない状態というのを考えてみる。 多くの人はこの「不自由じゃないが、自由でもない状態」に当てはまるんじゃないか。 例えば、会社や学校。 そこには、必ずそれぞれルールが存在する。そして、それは殆どの場合において、自分自身で作ったものではない。 ルールは必ず遵守しないといけないというわけではなく、嫌になれば、勝手に出ていったってかまわない。 だけど、何となく、そこのルールに従う。ルールの中で色々と試行錯誤する。 自分にとっての自由 最後に、自由な状態について考えてみる。 最近、「自由に生きる」とか「好きなことだけして生きる」みたいな、謳い文句が流行っているが、彼らの根底にある考え方は一体なんだろう。 僕が想像するに、それはお金ではないだろうかと思ってる。彼らは、お金があれば、一応満足するんじゃないだろうか。 お金かあ。 たしかに、お金があれば、自由になるのかもしれない。働く必要もないし、好きなところに住んで、好きな生活を送れるのかもしれない。 いま、何か嫌なことをやらなければいけない生活だとしたら、嫌なことをやらなくてもよく、誰からも何も強制されることはない。そういう意味では。。。自由なのか。 いや、しかし、自由ってのは本当にそういうことか。 うーん。いや多分、彼らにとっての自由ってのはそういうことだ。 「自由」が欲しいんじゃなくて、「お金」が欲しいって、多分、そういうことだろう。 じゃあ、自分はどうなんだろうか。 お金が欲しいのか。。。。いや、別に生活するだけのお金があれば、構わないかな。 それじゃあ、自分にとっての自由とは? ….「何でも出来る」ってことだろうな。